神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

戦前期における裏表紙に刷られた出版社ロゴマークの美学

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爺さんなので読んだ本の数パーセントしか記憶に残らなくなった。稲岡勝先生の『明治出版史上の金港堂』(皓星社)で偽版防止用の証紙については覚えているが、出版社のマークについて言及されているのは、まったく失念していた。

明治二十年前後の図書(洋装本)には、裏表紙の中央にイニシアルを図案化した出版社のマークを散見する。例えば、二葉亭四迷浮雲』には原亮三郎(HR)の金港堂、小林義則(KY)の文学社(図12)、新著百種には吉岡哲太郎(YT)の吉岡書店など。これは、無論、装本デザイン上の問題であるが、一面で偽版防止の役割も果たしていたと考えられる。(略)

明治20年前後の流行とは無関係だが、大正13年4月発行のヴァンティン著、馬場二郎訳『ピアノ演奏法』(大阪開成館)の裏表紙にも発行者三木佐助のイニシアルをマークにしたものがある。昨日の天神さんの古本まつりで100円均一台から発見。MとSを丸(大阪のOかもしれない)で囲んだだけの極めてシンプルなマークである。
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裏表紙の中心部に入れられたロゴマークは、イニシアルを使ったものだけではなく、動物を使ったものもある。青木嵩山堂と昌平堂の例を挙げておく。左がライオンを使った澤田誠武『演説美辞法:雄弁秘術』(青木嵩山堂、明治43年4月18版)、右が蜘蛛を使った小原要逸(無絃)訳『ロセッチの詩』(昌平堂川岡書店、明治38年10月)である。皆さんも手持ちの黒っぽい本の裏表紙を見て、変わったロゴマークを見つけてください。
ところで、稲岡先生は前掲書の第1部第3章「明治出版史から見た奥付とその周辺」を次のように締めくくっている。

このように奥付は、明治二十年以降かなり法による制約をうけることになった。その同じ年、法の定める要件のほかは何もない至ってシンプルな奥付をもつ出版社が現われた。およそ偽版の出ることなど予期もしていないようなその出版社こそ、廉価大量販売を呼号して大を成していく博文館であった。この意味からいっても、博文館は新しい時代の旗手であった。

この記述はやや誤解を与える。博文館も明治20年の設立当初は偽版防止の類型に属する対策を採っている。同年12月の出版条例全部改正前の山本東策編『日本三府五港豪商資産家一覧』(明治20年7月)の奥付には、「博文館印」の消印がある証紙が貼られている。また、全部改正後の坪谷善四郎『通俗政治演説』(明治21年12月)の奥付には、大橋佐平に「大橋」の捺印、博文館に「博文館蔵版証」の捺印がされている。どちらも国会デジコレで見られる。
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更に博文館は裏表紙に動物(鳥)を使ったマークも載せていた。写真は、渋江保『独仏文学史』(明治26年3月)である。このマークは明治40年代には別のものに変わっている。
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来原慶助(木犀庵)『通俗霊怪学』(明治44年12月)の例を挙げておく。
本の裏表紙は、表表紙に比べるとどうしても光が当たらない。裏表紙の美学、特にロゴマークに注目した展覧会や研究が期待されるところである。

天神さんの古本まつり100円均一台で新たな明治期教科書の証紙発見

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水害や震災、残りの人生を考えるとこれ以上本を増やしたくないのだが、気が付くと今日も天神さんの古本まつりへ。初日にもあった100円均一台の和本が詰まった段ボール箱をじっくり見た。初日には和本を1冊も買わなかったが、今日はゆっくり見たせいか買いたい和本が幾つかあった。
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そのうち持ってない証紙が貼られた明治期の教科書を1冊購入。木沢成粛編『小学中等読本』巻2(阪上半七、明治15年10月再版)。「観道処章」「明治十五年*1五月発行」と印刷された証紙に「観道処」の消印。
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『明治出版史上の金港堂 社史のない出版社「史」の試み』(皓星社平成31年3月)で稲岡先生が言う偽版防止の類型Ⅲ「蔵版之証などとした証紙(印紙)を貼付した上、消印を施したもの」に当たる。これに属する証紙は、「明治14年教科書『修身児訓』に貼られた検印紙 - 神保町系オタオタ日記」や「明治期教科書の証紙は謎だらけ - 神保町系オタオタ日記」でも紹介したところである。今回新たな証紙をこれに加えることができた。なお、「近代書誌・近代画像データベース」の「近代書誌・近代画像データベース小学中等読本 漢文」で見られる木沢成粛編『小学中等読本漢文』巻3*2(阪上半七、明治14年6月版権免許)の奥付には「観道処之印証」と印刷された私が見つけたのとは別の証紙が見える。
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*1:蔵書印さんの御教示により、「季」ではなく「年」の異体字と判明

*2:巻1及び2の証紙は、剥がされている。

戦時下に京大北門前の進々堂に通う河上肇

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一昨日終了した四天王寺秋の大古本まつりの100円均一コーナーに河上肇全集(岩波書店)の端本が数冊出ていたが、誰か買っただろうか。経済学者の全集の端本では100円でも中々拾う人はいなそうだが、この全集の日記篇は実は面白い。拙ブログでも「河上肇が通った臨川書店と一信堂 - 神保町系オタオタ日記」や「吉井勇と河上肇の日記に記録された馬町空襲の真実 - 神保町系オタオタ日記」で使ったところである。
さて、京大生御用達の喫茶店に京大北門前の進々堂がある。黒田辰秋製作の長テーブルがあり、居座って本やノートを広げ御勉強する京大生には便利であった(らしい)。戦前から営業していて、戦時下に河上が通っていた。

(昭和十七年)
一月十五日(木) 京大裏門前のパン屋進々堂の名は、静子よりの手紙により、小菅在獄中より聞き知り、一度そこのパンを食せんことを思ふこと久し。昨日恒藤君より、そこのパンは東京にも稀な位の美味なる由を聞き、午前十一時に行つて見る。人少くして、ジャム付のパンを食ひつつある客あるを見て、之はよき時に来りたりと思ひしに、もはや売切にて十二時にならでは給せぬとのことに、意を達せずして帰り、静子のくれたしるこを食してパンに代ふ。(略)
十二月三十日 小菅獄中より一度口にしたしと思ひゐし浸(進)々堂のパン、学生少きため今日初めてありつく。
○ひとやにて八年まへより聞きゐたる浸々堂のパンをけふ食む
○わが友の日本一とほめゐたるパンやのパンも今あはれなり
○列なしてただ一きれのパン食むと街にあふれて待ちゐる人々
(昭和十八年)
六月十六日(水) 第六回目の第二誕生日*1なり。(略)秀および静につき合つて貰ひ、余が本代にておごるとて、昼食時、百万遍の駸[ママ]々堂といふパン屋のランチを食べにゆく。ランチ六十銭、紅茶十銭、これが恐らく余の主唱にてものを食べにゆきし嚆矢ならむ。外に林檎ゼリー(価十五銭)をも食べて帰る。(略)
六月二十日(日) (略)昼食はどこも駄目、遂に百万遍の駸[ママ]々堂まで廻つて見しも、今日は休業。(略)
六月三十日(水) 昼食、進々堂にて特別料理(一円)といふのを喫し、帰途河田家に立ち寄る。
七月十三日(火) (略)進々堂にては野菜(胡瓜、三度豆、キャベツ)にシチュウだけ食べて帰り、うちに帰りて飯一碗をとる。(略)
十二月六日(月) 静子と共に午前十一時進々堂にてパン・ランチを食す。価、飲料とも九十銭。パンの分量、以前に比し半分よりも少く、飲料といふはコブ湯にて生ぬるし。(略) 

( )は校訂者による傍注、[ ]は引用者による注

文中、河上に進々堂のパンが美味なことを教えた「恒藤君」は恒藤恭。昭和18年末になると進々堂の提供する料理も貧弱になったことがわかる。より戦局の悪化する昭和19年、20年に営業できたのかは、河上の日記では確認できなかった。いつか、誰かの日記で確認できるだろうか。

*1:校訂者注によると、「昭和十二年の出獄の日からかぞえていう。ただし一日間違えており、出獄の日は六月十五日」

四天王寺の古本まつりでみゆきから「青木嵩山堂製本之記」印のある『近世詩文幼学便覧』を発見

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四天王寺秋の大古本まつりも終わり、台風が近づく中、明日からは天神さんの古本まつりである。私は、四天王寺の初日は100円均一コーナーが激混みになることを予想して、みゆき(古本横丁とも言うようだ)の和本300円均一コーナーから廻った。何冊か購入できたが、今日は三尾重定編、幸田思成校訂、松井方景再校『近世詩文幼学便覧』上・下(青木嵩山堂、明治28年6月再版)を紹介。『青木嵩山堂:明治期の総合出版社』(アジア・ユーラシア総合研究所、平成29年9月)の「年次別出版物一覧」に未記載ではないかと買ってみたら、やはり載っていなかった。「青木育志・青木俊造『青木嵩山堂ーー明治期の総合出版社ーー』の「年次別出版物一覧」への補足 - 神保町系オタオタ日記」で挙げた未記載の本と併せて、これで3冊目である。案外、同一覧は記載漏れの本が多いのかもしれない。
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内容は、国会図書館が所蔵する明治10年9月松井方景発行と同一である。奥付も挙げておこう。売捌所の川瀬代助と長嵜次郎は青木著の「嵩山堂関係の売捌所」には記載がない。内容の写真も挙げておくが、どのように使う便覧かさっぱりわからず、宝(?)の持ち腐れである。
元袋は旧蔵者が厚紙に貼ったのか、元々なのか不明だが函状になっている。丸印と角印が押されているが、不鮮明である。そう言えば文庫櫂で袋付きの嵩山堂本を買ってあるのを思いだした。
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幸い無事、井上保申(棋遊)編『囲棋初学全書』(嵩山堂、明治24年7月)が発掘され、写真のとおり、角印は「青木嵩山堂製本之記」とある。「製本之記」印は珍しいようで、「近代書誌・近代画像データベース」で6件、「NIJL 蔵書印データベース」で2件である。ただし、「青木嵩山堂製本之記」印はない。丸印の方はよく分からない。文字の記載はなく、模様だけのようだ。呼び方が分からないので、両データベースに類例があるのかないのかは不明。

青木嵩山堂 (明治期の総合出版社)

青木嵩山堂 (明治期の総合出版社)

古書西荻モンガ堂で「個人名のついた研究会会誌の世界」展開催

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源氏物語』の定家本のうち、『若紫』一帖が発見され、研究者やマスコミがひと騒ぎである。特に紫式部学会では大騒ぎだろうか。同学会が戦前・戦中発行し、戦後の昭和37年11月に再発行した『むらさき』という雑誌がある。2巻7号,昭和10年7月の写真を挙げておいた。学会発行というと堅苦しい雑誌を想像してしまうが、目次を挙げたように、翻訳小説あり、映画の紹介ありで、表紙に「趣味と教養」とあるとおり硬軟両様の誌面となっている。
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紫式部学会及び『むらさき』については、今井久代・中野貴文・和田博文編『女学生とジェンダー 女性教養誌『むらさき』を鏡として』(笠間書院平成31年3月)に詳しい。同書の田坂憲二「紫式部学会と雑誌『むらさき』」によれば、紫式部学会は昭和7年5月創立、会長藤村作、講師久松潜一・池田亀鑑。『むらさき』は昭和9年5月創刊*1、19年6月号で終刊した。また、座談会「女学生とジェンダー 一九三四ー一九四四」中の和田氏の発言によると、

・現在の『むらさき』の「印象は、『源氏物語』に特化した学術雑誌」だが、戦前版は「文学雑誌というよりは、女性教養誌という性格が強く」、そのため戦前版の復刻をあきらめたという。
・池田利夫編『雑誌『むらさき』戦前版戦後版総目次と執筆者索引』(武蔵野書院、平成5年)によると、戦前版では「生田花世・今井邦子・円地文子・岡田禎子・岡本かの子林芙美子・深尾須磨子・真杉靜枝・水町京子・森三千代・与謝野晶子などの女性文学者が、常連執筆者」で、「男性文学者では、金子光晴草野心平佐藤惣之助釈迢空室生犀星らが、執筆回数で目立って」いるという。
昭和19年1月に「日本出版会は、雑誌の統合整備を発表し」、「『むらさき』も六月号の「編輯後記」にあるように、六種類の短歌誌と統合され、『芸苑』として新発足」したという。

さて、『むらさき』のように個人名のついた研究会会誌を集めた展覧会が古書西荻モンガ堂で12月2日(月)から22日(日)まで開催される。企画は、かわじもとたか氏で、私も少しだけ協力するが、かわじさんや林哲夫氏を初めとする強力な協力者による見たことも聞いたこともないような貴重な研究会会誌も披露されることだろう。まだ、だいぶ先の話ではあるが、忘れずに是非とも行っていただきたい。

女学生とジェンダー: 女性教養誌『むらさき』を鏡として

女学生とジェンダー: 女性教養誌『むらさき』を鏡として

*1:別に同年2月「創刊特輯号」あり。

吉井勇と河上肇の日記に記録された馬町空襲の真実

吉井勇の誕生日なので、吉井ネタを。吉井勇の日記が府立京都学・歴彩館に所蔵されていて、細川光洋静岡県立大学教授により、「吉井勇の戦中疎開日記(上)(中)」が発表された。吉井日記の内、特に疎開する前の日記に京都市への初の空襲である馬町空襲(昭和20年1月16日)に関する記述があることが発見され、昨年3月京都新聞の記事になり、また同館の「吉井勇日記にみる馬町空襲 | 京都府立京都学・歴彩館『京の記憶アーカイブ』」で該当部分が公開されているし、府立図書館でも最近パネル展示があった。吉井の日記昭和20年1月18日の条には「死者三十名ほど」と書かれているという。なお、同論文によると、歴彩館は同年6月28日及び7月3日付け吉井宛谷崎潤一郎の書簡を所蔵している。
馬町空襲について記載のある日記としては、従来河上肇の日記が知られている。『河上肇全集』23巻(岩波書店、昭和58年11月)から引用すれば、

(昭和二十年)
一月十六日 (略)
夜半爆音と飛行機の音にて眼さむ。ややありて警戒警報出づ。東山方面に相当の被害ありたるものの如し。新聞紙には出でざるも、死者十七名、負傷者百二十名、家屋倒壊二百と伝ふ。(略)
一月二十一日 (略)東山方面爆弾による死者は、その後の死亡者を合せ、四十七名に及べりといふ。(略)
五月十一日 (略)米機来襲、府立病院附近へ投弾の由なり。(略)
六月二十七日 (略)昨日の空襲にて、千本中立売方面に爆弾落下、死者百余名に上りし由。(略)出水学区のみにて落下爆弾八個、全焼倒壊家屋一六八軒、罹災者七八〇人、死者四四人、外に行方不明六人。

馬町空襲の他、5月の御所空襲と6月の西陣空襲も記述されている。馬町空襲の被害は、資料によって異なるが、馬町空襲を語り継ぐ会のホームページ「馬町空襲を語り継ぐ会」によると、死者34人、負傷者56人、家屋の全焼・全壊31戸、半壊112戸とされている。河上の日記では、死者47人、負傷者120人、家屋倒壊200戸である。死者については41人とする説もあるので、案外河上の日記の記載の方が真相に近いのかもしれない。戦前の知識人は万一の事を考えて日記の記載には注意を払った。特に河上のような逮捕・勾留の経験者は日記の記載には細心の注意を払っていただろう。空襲の被害状況を日記に記載することもまずかったのではないかと思うが、情報源を隠すことには注意を払ったのだろう。誰から聞いたのか、記録に残して欲しかったものである。

金港堂発行の雑誌『和国新誌』とはーー稲岡勝『明治出版史上の金港堂』のゲスナー賞受賞を祝してーー

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稲岡先生の『明治出版史上の金港堂 社史のない出版社「史」の試み』(皓星社)が第8回ゲスナー賞「本の本」部門で銀賞を受賞したとのこと。おめでとうございます。同書については、「稲岡勝『明治出版史上の金港堂』(皓星社)にならい出版史料を発見 - 神保町系オタオタ日記」で既に紹介したところである。受賞記念に同書には出てこない金港堂発行の雑誌『和国新誌』についてアップしよう。
稲岡著には、金港堂が発行した雑誌として、明治21年創刊の『文』や『都の花』、明治34年から35年にかけて創刊の七大雑誌(『教育界』『少年界』『文芸界』『少女界』『軍事界』『青年界』『婦人界』)などを挙げている。最近、偶然金港堂発行の未知の雑誌に関する記述を『内藤湖南・十湾書簡集:内藤湖南生誕一五〇年記念』(鹿角市教育委員会平成28年8月)に見つけた。明治22年11月6日付け内藤湖南から父の内藤調一(十湾)宛で、「方今の雑誌は先に日本人御覧然るべきか此頃金港堂より出候和国新誌もよろしからん其他は大阪の経世評論鳥尾の保守新論是等也是に国民の[ママ]友を併せて見れば大によろしかるべしと存候」とある。『和国新誌』という雑誌は、国会図書館サーチやCiNiiではヒットしない。同誌は「此頃」出たとあり、また『日本人』は明治21年4月、『経世評論』は同年12月、『保守新論』は22年1月創刊なので、22年頃創刊されたのだろう。謎の雑誌だ。
追記:蔵書印さんの御教示により、おそらくは明治期出版広告データベースの「明治期出版広告データベース詳細画面」に出てくる『利国新誌』だろうと判明。CiNiiでは『利圀新志』(明治22年10月創刊)として挙がっている。