壽岳文章は平成4(1992)年没。今年が、没後30年に当たる。そのためか幾つか壽岳関係の出版・展覧会を目にする。『民藝』7月号(日本民藝協会)は、特集「寿岳文章と民藝運動」である。本誌は、壽岳の孫弟子に当たる中島俊郎先生から御恵投いただきました。ありがとうございます。目次も挙げておきます。
向日市文化資料館では、企画展「『紙漉村旅日記』が語る和紙と時代」を7月31日まで開催中。和紙関係は人気があるようで、関連イベントは満員御礼である。ただ、類似の展示が続いているので、壽岳に関して新たな切り口も求められるところである。
さて、壽岳と和紙研究に関連して、私が気になっている人物として、生没年を含めた経歴がさっぱり不明な奥本正人がいる。奥本については、既に田村正「『和紙研究』」『向日庵』2号(特定非営利活動法人向日庵、平成31年2月)で調査されている。田村氏のまとめたところによると、奥本及びその周辺の足跡は次のとおりである。
昭和11年夏 禿氏祐祥を訪ね、其の後、寿岳文章、新村出、中村直勝など訪問
昭和11年10月24日(土) 京都帝大楽友会館に於いて、「紙に関する座談会」を開催
昭和11年12月3日(木) 若林と二人で第一回の美濃紙の調査
12月5日(土) 若林大阪の古書即売会に於いて『美濃紙抄製図説』購入
12月23日(水) 再び若林と二人で美濃紙の調査
昭和12年2月10日(水) 『和紙談叢』発刊。「美濃国抄紙の沿革と現況」発表
5月25日(火) 『縮写 美濃紙抄製図説 全』を『和紙談叢別冊』として編集発行
其の後奥本行方不明、昭和13年7月半ば『和紙談叢』から身を引く。生年月日不明。
「若林」は、「みやこめっせの古本まつり中止にガックリ。しかし、三密堂書店で禿氏祐祥・若林正治旧蔵書を - 神保町系オタオタ日記」などで言及した若林正治である。奥本は『和紙談叢』発行の発案者で若林と共に同誌第1冊(澄心堂、昭和12年2月)発行の事務方を務めた。ところが、第2冊の発行前に行方不明になり、ようやく判明した下宿先を訪ねると、不都合を陳謝し、第2冊の原稿と読者名簿等を差し出して一切の処理を託したという。結局、『和紙談叢』第2冊は発行されず、あらためて昭和14年1月『和紙研究』の創刊に至った*1。
また、『和紙談叢』第1冊の奥付として、田村氏は次のように挙げている。
京都市伏見区桃山町羽栄[ママ]長吉九番地
印刷人 奥本正人 京都市伏見区瀬戸物町
印刷所 創文社印刷工場
京都市伏見区桃山町羽栄[ママ]長吉九 奥本内
発行人 和紙研究会
京都市伏見区京町南八丁目 若林内
発行所 澄心堂
これはやや不正確で一見すると奥本の住所が伏見区の瀬戸物町と桃山町の両方にあると誤解しかねない。正確には、次のとおりである。
瀬戸物町の創文社印刷工場が気になるので調べてみた。宗形金風『何故支那と戦ふか』(創文社、昭和12年12月)という本があって、創文社の所在地は伏見区瀬戸物町728、印刷者笠間信義の住所も同一である*2。この笠間は、奥本が編集した『縮写美濃紙抄製図説:全』(澄心堂、昭和12年5月)の印刷者でもある。『和紙研究』第1号(和紙研究会、昭和14年1月)の「編集雑記」には「印刷の業務にも多少の関連を持つてゐる奥本正人君」ともあり、奥本は創文社で働いていたのかもしれない。
いずれにしても、奥本の詳細な経歴は不明である。『和紙談叢』や『和紙研究』には、壽岳や禿氏が参加していた。壽岳の日記・書簡については、中島先生や高木博志先生らにより調査が進められているし、先日の大阪古典会の「古典籍展観入札会」には禿氏宛書簡群が出品されたところである。今後の研究の進展により、謎の奥本の正体が判明するかもしれないので期待しておこう。