神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

第一神戸高等女学校教諭田中喜美代さんのその後

今年初の寸葉会(絵葉書を中心とする紙物の即売会)で1枚だけ買ったのが、「神戸市坂口通一丁目関西学院構内」の「田中喜美代先生」宛の年賀状。発信者は印南郡大塩町の山本という女性。切手を貼る所には、「TORII ShOTEN」とある。切手を貼った痕跡はないので、投函しなかったようだ。
田中喜美代は全く未知の人で、普通なら買わないのだが「関西学院構内」とあるので、「教員だろう、調べてみるか」と買ってみた。シルヴァン書房出品で300円。
皓星社の日本人物情報大系8巻女性録編3で復刻された『昭和十四年婦人年鑑』(東京聯合婦人会、昭和13年12月)に同名の女性が「県立神戸第一高女教諭、佐保会評議員」とある。「神戸第一高女」は正しくは第一神戸高等女学校と思われる。また、「佐保会」は奈良女子高等師範学校の同窓会なので、田中は同校の卒業生のようだ。そこで『奈良女子大学八十年史』(奈良女子大学、平成元年3月)を見ると、大正10年文科卒の山添さと(旧姓芦田)が次のように書いている。

私共の学年で特別課外音楽をやっていた者に、担任の先生から卒業の前に音楽の教員免許状を希望する者には許可出来るからと言われ二、三名の人が希望して免許状を貰い卒業後私の知っている範囲では、家事科の田中喜美代さんはずっと兵庫県の女学校で家事以外音楽の授業も続けてやって居られた。この人は在学中も非常に熱心で特別課外の声楽をやっている外に夜の有志者によるコーラスの部の世話役もずっと続けてよく中心になってして実力のある人だったので誰もがあの人ならと納得出来る気がした。

これで、田中が奈良女子高等師範学校家事科卒で、神戸第一高等女学校の教諭だったことがわかった。年賀状によれば、関西学院の教諭だったようだが、これが確認できない。入手した年賀状は右横書きで「郵便はがき」とあり、これは昭和8年以降使われ、戦後左横書きに変わったらしい。また、裏面の図柄は龍の描かれた屏風の前で子供達が投扇興をして遊ぶもので、辰年と思われ、そうすると昭和15年と推定される。しかし、『関西学院一覧』(関西学院大学昭和14年10月)を見たが、職員名簿に名前はなかった。そもそも、年賀状に「神戸市坂口通一丁目関西学院」とあるが、関西学院昭和4年に現在地の西宮に移っている。宛先を別人の昔のものと間違えたか、関西学院の所在地が古いことに気付き投函しなかったのかもしれない。関西学院の教諭だったのかどうかは引き続き検討が必要である。あと田中が結婚されたのか他人事ながら気になったりもする。