神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

小寺廉吉と辻村太郎が旅した硫黄島の思い出

サンボーホールの古本市で使用済み絵葉書1枚100円の中から発見。「神田区一ツ橋高等商業学校内 小寺廉吉」宛で、発信者は本郷弥生町の辻村太郎。消印は不鮮明だが7年9月に見える。図柄はハワイのパパイアで、文面には「もう一年たち申し硫黄島の二夜は美しきレヴェリーと相成り候」とある。戦後富山大学桃山学院大学の教授となる小寺廉吉については「もう一人の少年も見た日比谷焼打ち事件」で言及したことがあるが、この頃の小寺について、菊地暁『柳田国男民俗学の近代ーー奥能登のアエノコトの二十世紀ーー』(吉川弘文館、平成13年10月)から引用してみる。

東京地学協会に通って地理学に本格的に親しんでいったのも[開成]中学時代である。専門家の講演を聞き、中学の先輩で東大地質学科の学生だった辻村太郎の手ほどきを受け、明治四十四年には協会員とともに前年大爆発のあった北海道有珠山を見学している。大正元年(一九一二)の小笠原群島の見学旅行にも同行(略)卒業後の進路は(略)東京高等商業学校(現一橋大学)を選び(略)卒業後は(略)大正八年に朝日新聞社に入社。

なるほど、小寺と辻村が繋がった。より詳しくは、岡田俊裕『日本地理学人物事典近代編1』(原書房平成23年12月)によると、小寺は、明治44年東京高等商業学校入学、大正元年東京地学協会主催の豆南諸島(小笠原・硫黄島)学術研究旅行に辻村らと共に参加、大正6年同校専攻部卒。これによると、大正7年時点では一ツ橋の東京高等商業学校を既に卒業しているので、絵葉書は大正元年硫黄島訪問の翌年である大正2年に発信したと見るべきか。もっとも、硫黄島訪問が1回だけだったとは限らない。辻村も岡田の書に載っていて、大正元年東京帝国大学理科大学地質学科入学、大正5年から大正7年まで同大学院、同年東京高等師範学校講師。詳しくは、ウィキペディア参照。二人の地理学者の若き日の交流を示す絵葉書が100円とは安い拾い物であった。

柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀

柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀

日本地理学人物事典 近代編〈1〉

日本地理学人物事典 近代編〈1〉