京都古書会館で開催された京都まちなか古本市では、紐閉じされた『秋田考古会々誌』1巻2号,大正14年11月から2巻1号,昭和3年2月までを入手。福田屋書店の和本の棚を念のためチエックしたら、紛れていた。500円。秋田県立図書館が1巻1号,大正14年8月から3巻6号,昭和7年8月まで所蔵している。1巻2号の「編輯後記」によると、「創刊号の謄字刷が甚だ不評判だつたので本号が[ママ]ら印刷することになりました」とある。謄写版の創刊号も欲しかった。
斎藤忠『郷土の好古家・考古学者たち 東日本編』(雄山閣出版、平成12年9月)によれば、創刊号には深沢多市(明治7年-昭和9年)の「新城館址と古鏡との研究」や武藤一郎の「山北に於ける考古資料」などを掲載。また、『日本民俗学大系』11巻(平凡社、昭和33年10月)によると、秋田考古会は、大正14年設立で会長は吉村定吉、幹事は武藤、深沢である。会長の吉村は、『図書館人物事典』(日外アソシエーツ)に立項されていて、明治19年生まれ、大正13年から昭和5年まで秋田県立図書館長であった。芸者の自主勉強会「のぞみの会」を読書会形式で指導したとあるので、ユニークな館長だったのだろう。
本誌1巻6号,昭和2年7月の「会報」には、春季総会について「午後から講演に移つたが土俗学の泰斗柳田國男先生が男鹿に赴かるゝ途上本会に臨席されたを機とし講演を御願せしに早速御承知下され本県に尤も縁故の深い菅江真澄翁に就ての有益なる講演があつた」とある。『柳田國男全集』別巻1(筑摩書房、平成31年3月)の年譜(小田富英作成)を見ると、これは昭和2年5月15日のことで、「菅江真澄百年祭を前にして」を講演。翌3年9月23日には、菅江真澄百年祭に参列後、秋田図書館で記念講演「県の恩人たる真澄翁の事共」を行ったとある。こうした関係の中、柳田は秋田考古会の顧問となっている。
他の顧問である三宅米吉、喜田貞吉、高橋健自の文学博士の肩書を見ると、柳田が博士でなかったことをあらためて意識してしまう。
入手した会誌には、「秋田県立秋*1田図書館横手分館」の蔵書印が押されていた。『近代日本図書館の歩み 地方篇』(日本図書館協会、平成4年3月)によれば、明治36年9月平鹿郡立図書館設立後、大正12年郡制廃止により、県立図書館横手分館となる。更に、昭和7年3月分館が廃止され、地元町に移管された。横手町立図書館の蔵書印は押されていない。県立図書館から移管される時に廃棄されたのだろうか。根拠はないが、移管後に町立図書館の蔵書印が押されないまま所蔵され続け、ある程度経ってから廃棄されて古書市場に流出したような気がする。