神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

花園大学図書館で発見された東本願寺南方美術調査隊によるアンコールワット写真の撮影者野村直太郎の経歴ーー萩原朔太郎や恩地孝四郎を撮影していた写真師野村直太郎とはーー

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 7月に『中外日報』に花園大学図書館で「東本願寺南方美術調査隊」によるアンコールワット撮影の写真が発見されたとの記事が出た。その撮影をしたのが、野村直太郎である。野村については、一昨年5月に岡崎の風工房で野村が所蔵していたアンコールワットの拓本コレクションが展示され、私も見に行ったところである。京都新聞同月23日朝刊には太田敦子記者による記事が掲載された。野村の生没年などの詳しい経歴は不詳である。チェコスロバキア生まれで、北原白秋らと詩作をしたり、インドではタゴール邸に滞在していたこと、戦後は同志社大学の講師を務めたこと、奈良に国際美術学校を創設したことなどしか判明していないという。
 そこで自称人間グーグルのオタどんが調べてみると、幾つかの新知見を発見したので紹介しておこう。先ずは『秋田雨雀日記』3巻(未来社、昭和41年2月)の記述である。

(昭和十二年)
六月二十一日
(略)きょう午後五時、吉祥寺修養社へゆく。トルストイヤンの写真師野村直太郎君が自動車をよんでぼくを自分の家へ案内してくれた。町有志の寄附による立派な撮影室で写真をとってくれた。妻君、植田という青年なぞにあった。七時ごろから修養社の有志の人たちに演劇について談話(略)
八月三十一日
(略)印度へゆく野村直太郎君が色紙をもってきたので四枚だけ徒ら書きをした。
(略)
十二月二十日
(略)午後六時から新宿明治製菓で橋浦君の五十年記念会があった。
(略)橋浦君は(略)現在は柳田国男系統の土俗学者としてもまじめに働いている。(略)
(橋浦泰雄君五十年記念祭、出席者、山崎今朝弥、細田民樹、佐々木孝丸、野尻医師、和田軌一郎、望月源三、野村直節、野村愛生)

 写真師でインドへ渡航するというので、「野村直太郎君」は東本願寺南方美術調査隊の野村と同定してよいだろう。昭和12年12月20日の条の「野村直節」も、野村直太郎の誤植の可能がある。というのも、鶴見太郎柳田国男とその弟子たち:民俗学を学ぶマルクス主義者』(人文書院、平成10年12月)で鶴見氏がまとめた「橋浦泰雄画伯五十年記念会」の出席者名簿の中に野村直太郎の名があるからである。なお、『秋田雨雀日記』4巻(昭和41年9月)の昭和24年8月30日の条には、「野村直太郎君(インドへ行った写真師)が娘さんと来られた」とある。
 野村の写真師としての仕事を「国会図書館サーチ」と「ざっさくプラス」を使ってまとめると、次のとおりである。

大正11年1月 『写真芸術』2巻1号に「(挿絵)霧の霽間」
昭和10年6月 『書窓』1巻3号に「文人映像(秋田雨雀細田民樹、新居格武者小路実篤)」
同年9月 『書窓』1巻6号に「文人映像2(詩歌人貌)(河井酔茗、野口米次郎、萩原朔太郎三木露風川路柳虹斎藤茂吉前田夕暮与謝野晶子)」
同年10月 『書窓』2巻1号に「画人映像」(織田一磨石井柏亭、津田青楓、杉浦非水)
同年12月 恩地孝四郎『季節標』(アオイ書房)に恩地の写真(同年5月撮影)←冒頭の写真
昭和12年10月 『書窓』5巻1号に「文人映像(三)(春山行夫北園克衛山中散生、村野四郎)」
昭和14年3月 『新女苑』3巻3号に「グラビアーー印度を見る」
同年8月 『カメラ』20巻8号に「印度の昼寝百態」
同年9月 『新女苑』3巻9号に「印度を語る」

 これによって大正11年には写真雑誌で活動していたことや、秋田とは昭和10年には知り合っていたことや『書窓』の企画・編集を担当した恩地と特に親しかったであろうことが分かる。上記のほかに、「日本の古本屋」への出品情報で、『随筆四季』第2輯(ウスヰ書房、昭和16年8月)に野村の口絵が載っていることも分かった。野村は臼井喜之介とも関係があったことになる。
 ある分野では謎の人物とされている人が別の分野では経歴が明らかな人物だったということはしばしばある。謎の野村直太郎も恩地や朔太郎の研究者には、よく知られた人物かもしれない。『萩原朔太郎全集』13巻付録『研究ノート』掲載の島本久恵「まぼろしの横顔」は、上記『書窓』に掲載された野村による朔太郎の写真に触れ、「当時としては異質の写真家、芸術的気魄の獰猛とさえ受け取られた、それで一般には敬遠され不人気だったあの野村直太郎さん」と書いている。異質の写真家野村直太郎については、引き続き調査したい。