神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展を4回も観ていた戦時下の前衛画家吉井忠と民俗学


 あれからもう2年も経つのか。2年前京都文化博物館の「さまよえる絵筆:東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展を観ていたオタどんは、たまげた。前衛画家吉井忠に関する展示の中に、『アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会解説』(日本世界文化復興会、昭和17年8月)があり、吉井の日記によればダ・ヴィンチ展を4回も観ていたという。昭和17年に開催されたこの展覧会を観た人が残した記録については、私は「昭和17年アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展を観た人達ーー高良とみの長女や『情報と謀略』の春日井邦夫氏も観ていたーー - 神保町系オタオタ日記」でまとめている。しかし、春日井邦夫を除き複数回観た人はいなかった。4回も観ていた人がいたとは。
 みすず書房から刊行された「さまよえる絵筆」展の図録39頁には、ダ・ヴィンチ展の半券が貼られた吉井の日記昭和17年7月13日の条が掲載されている*1。キャプションには、「(略)吉井の日記を読むと彼は6月30日*2、7月13日、8月19日、8月20日の少なくとも4度展示を見に訪れている。この展示の終盤には日本とイタリア、世界の歴史を結びつけたパネル展示も行われていたが吉井は『日本世界云々と妙なコジツケが多いのは閉口』と記している」とある。吉井が感じた「コジツケ」は外務次官だった天羽英二も感じていて、昭和17年7月11日の日記に「日本文化研究トノ関係、稍コジツケ」と記している(「戦時下のトンデモ・ダ・ヴィンチ展 - 神保町系オタオタ日記」参照)。
 図録の「作家作品解説」から吉井の経歴を要約しておこう。

吉井忠(よしいただし)
明治41年 福島市
大正15年 上京して、太平洋画会研究所に通い、寺田政明、麻生三郎らと知り合う。
昭和3年 第9回帝展に初入選
昭和11年 前衛絵画に関心を抱くようになり、独立美術協会に出品を始める。
同年10月~12年8月 渡欧
昭和14年 寺田らと共に結成した創紀美術協会を発展させた美術文化協会の結成に参加し、以後昭和21年まで同展に出品した。
昭和39年 自由美術家協会を退会し、寺田らと主体美術家協会を結成
昭和45年 寺田らと共に樹展を結成し作品を発表
平成11年 没

 吉井は、柳田國男の「民俗学」にも関心を持ち、数回に渡り東北を訪問し、『東北記』(昭和16年9月~19年10月)を残した。『美術文化』や『画論』に一部発表されたが、まとめた出版はされなかったという。図録の「Ⅳ『地方』の発見」に一部のスケッチと文章、民俗学関係の旧蔵書が掲載されている。

*1:その他に、吉井が所蔵していた『日伊文化研究』2号(日伊協会、昭和16年)、同誌12号(日伊協会、昭和18年)と『アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会解説』の書影も掲載

*2:ダ・ヴィンチ展の開始は、昭和17年7月11日のはずだが、吉井の日記にどう書かれているのだろうか。