『正伝・後藤新平』第8巻に後藤新平の秘書として小野法順という人が出てくるのだが、まさか谷崎ゆかりの元坊主の小野法順のわけはなかろうと思い込んでいた(昨年9月29日参照)。ところが、既に細江光先生が小野に関する文献を紹介していた。
「谷崎潤一郎全集逸文紹介2」(『甲南女子大学研究紀要』第27号)で紹介している谷崎の「むかしばなし」(『社会及国家』昭和7年11月号)によると、
小野法順はもと浄土宗の僧侶で知恩院内局の外交部長といふやうな要職を占め、華頂山塔頭の住職であつたが、長田幹彦が「尼僧」といふ小説のモデルに使つたゝめに山を逐はれて東京へ逃げて来て、一時は相場師になるのだと云つて殻蠣[ママ]町あたりへ出没した揚句の果てに、私との縁故を辿つて山塞へころげ込んだのである。彼は後に後藤新平伯の秘書となり、後藤伯死後は早川雪洲プロダクシヨンの創立に関係してゐたが、その頃一度岡本の拙宅へ訪ねて来たきり、近頃は又杳として音沙汰がない。
「山塞」とは、岸巖の所帯で、大正元、二年頃、遠藤始郎、山田湿、谷崎がころげ込んでいたという。
元坊主の小野と後藤新平の秘書の小野は同一人物だったのだね。こうなると、麻布区会議長(昭和8年12月〜10年8月)の小野も同一人物の可能性が高くなってきた。
それにしても、わしは一周遅れで細江先生を追いかけている感もある。いや、研究者ではないので、追いかけているわけではないが。
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「HO」って、古本オタクの略語かと思ったら、「ひょっとして男」のKY語だった。