神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大川周明とトンデモ本の世界(その2)


1 大川周明小谷部全一郎(承前)


 大川の自伝『安楽の門』によると、

 私は頭山[満]翁に於て真個の日本人を、押川[方義]先生に於て真個の信神者を、八代[六郎]大将に於て真個の武人を見た。


 とある。押川は、ヨコジュンのファンの方には押川春浪の父として、ご承知であろう。小谷部でなく、酒井勝軍であれば、押川の創設した東北学院の出身者であるから、大川との接点が浮かんでくることになるが、そう簡単には謎はとけない。


 『大川周明と国家改造運動』(苅田徹著)によれば、大川は、「明治43年7月、松村介石が三年程前[明治40年10月]に創設した日本教会(1912年に道会と改称される)に入会」し、既に同会の会友であった押川に親炙するようになったという。


 さて、誰ぞには、余り受けていなそう(?)なので、そろそろ解答をだそう。
 小谷部が亡くなった妻菊代(明治8年1月生まれ。明治32年結婚)への「供養の卒塔婆のつもり」で綴った『純日本婦人の俤』(昭和13年4月発行)から引用する。


父(引用者注:亡妻の父、石川重松)の生前に米国宣教師等が首唱となりて宮城女学校を創立するに際し、父は売買の名義の下に、今の東三番庁の仙台目抜きの土地を寄附せしより、其の謝恩の意味に於てのことなりしか、不幸なる石川家の乙女等二人を学校に引取り、校費にて教育し、姉の梅代は押川方義牧師の媒介にて東京の松村介石氏に嫁し、妹の菊代も宮城女学校卒業後、姉の縁先なる松村家に母と共に引取られてありしが(以下略)

 
 そう、小谷部の妻、旧姓石川菊代の姉、梅代は、松村夫人(明治28年1月結婚)なのだ。ちなみに、石川梅代は、相馬黒光が、宮城女学校を自主退校することとなるきっかけのストライキをした五人組の一人で、そのうちの一人、町田辰は、後にあの千里眼事件の福来友吉の夫人となる(相馬『黙移』による。)。


 更に、薀蓄を付け加えれば、松村は、明治41年、平井金三と相談して、心霊的現象の研究を目的とする「心象会」を結成するが、「忽ちにして帝大の博士諸名を始め、朝野の紳士数十名の会員を得」たというが、その中には東京帝大教授、心理学者の元良勇次郎、すなわち、福来の恩師で千里眼実験にも何度か立ち会う人物の名前も見られる。松村をめぐって、千里眼事件の師弟が姿を見せるのはおもしろい(『大川周明と国家改造運動』(苅田徹著)による。)。


 さて、小谷部は、妻や、義理の姉菊代を通じて松村と面識があることは、当然であろうが、それ以上に親しい関係であったようである。
 小谷部『著述の動機と再論』によれば、

拙著に対する反対書の始めて世に現はれたる日に、先登第一に余の草庵を訪ひ、速に反駁書を出して世に問ふべしと、玄関先より大声にて怒号せられたる松村介石氏も、余の沈黙自重して筆を執らざる事をもどかしく思ふたるにや、「道」雑誌に氏の所信を掲げて曰く、
 「(前略)成吉思汗は確に我が源義経である(以下略)」

というから、尋常な関係ではない。


 さて、今まで述べてきたことから、小谷部と大川は、松村、押川、日本教会(道会)の関係の中で、面識があったと推測できるのである。


 さて、本項のテーマからはずれるが、終わりに当たって、小谷部『純日本婦人の俤』の次の一節で終わろう。相馬黒光の意外な一面を知ることができる。

最近亡妻の告別式の前日に、菊代の親友にて有名なる新宿中村屋の主婦でありまた『黙移』と題する本の著者としても、世に知られて居る相馬黒光女史が拙宅を訪はれ、本人の遺骨を安置せる室に通り、私に述懐して曰く、
『この菊代さんの様な心の立派な人は、世にふたりとありません。実に惜しいことを致しました。
 私は今日お宅へ泣きに参りました。私は以前子供を二人も亡くして居りますが、曾つて涙などを人様に見せませんでした、併しこの菊代さんには心から泣かずに居られません。どうぞ私を泣いて泣いて泣き崩れさせて下さい、あなたはあちらに行つて下さい。私を此処で一人で泣きくづれさせて下さい』とて嗚咽の涙にむせぶなりき。