神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大川周明とトンデモ本の世界(その1)


 『酒田市立光丘文庫所蔵大川周明旧蔵書目録』(平成6年2月発行。以下『目録』という。)を見ていると、「シューメイ、お前もか!」と言いたくなる様な書名が出てくる。そこで、「大川周明トンデモ本の世界」として、大川と主に竹内文献の信奉者たちとの関係に切り込んでみよう。


1 大川周明小谷部全一郎


 『成吉思汗は源義經也』増補改版 昭和5年
 『成吉思汗は源義經也 著述の動機と再論』 大正14年
 『日本及日本国民の起源』 昭和4年
 『純日本婦人の俤』 昭和13年


 上記は、『目録』に挙がっている小谷部の著書。
 小谷部の著書ではないが、義経ジンギスカン説の関係では、反対説に立つ雑誌「中央史壇」の「成吉思汗は源義經にあらず」特集号(大正14年)まである。

 
 更に、大川と小谷部の関係については、三村三郎の『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』に次のような不思議な記述がある。

小谷部全一郎氏が大正6年1月に「日本神代の住民」と題する上中下三巻を著述したが、民心を刺激することを恐れて発表せず、ただ一人大川周明博士にだけひそかに見せたという、(以下略)


 三村によれば、昭和28年1月28日に、日猶懇話会のメンバーで国大出の若き学徒川口選治郎宅を訪問した際、小谷部研究の第一人者である同氏宅で眼にとまった論文だという。「大川云々」の部分は、どういう根拠があるかは記述されていない。
 

 大正6年当時、無名に等しかったと思われるこの二人の接点は、両人とも秋田県出身であること以外にはないかと思われるかもしれない。しかし、割と容易にその謎は解ける。


まず、大川と小谷部に面識があったかについては、昨年相次いで刊行された平凡社新書義経伝説と日本人』(森村宗冬著)や『義経伝説をつくった男』(土井全二郎著)にも書かれていることだが、『成吉思汗は源義經也 著述の動機と再論』(大正14年10月発行)で、「中央史壇」の「成吉思汗は源義經にあらず」特集号(大正14年2月発行)に対する批判と思われる大川からの書簡に言及している。
 その原文は次の通りである。


 文学士大川周明氏は拙著に対し謝状を贈り且つ反対説を唱ふる学者を難じて「貴下の心術に関し如何はしき邪推をめぐらせるに至つては実に言語道断、ただ呆れるの外無之候あのやうな心を以て歴史を研究して居ては、とても英雄の真骨頭は分るまじと存せられ候云々」と鉄椎を下し。


 この文章中の「拙著に対し謝状」というのは、『成吉思汗は源義經也』(初版は大正13年)の贈呈に対する謝状とも読める(ただし、『目録』には昭和5年版のみ挙がっている。)が、著書を贈呈するほどの関係があったのだろうか。
 結論から言うと、それはあったのである。だから、この大川の「謝状」というのは、単なる「読者の声」とは違うと解すべきであろう。