神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

日本美術報国会による陸軍省及び海軍省への必勝絵馬献納


 日本画家土肥蒼樹宛葉書は、4枚所蔵。そのうち1枚は「竹内栖鳳門下の土肥蒼樹と新しき村の上田慶之助・高橋信之助 - 神保町系オタオタ日記」で紹介済みである。今回は、昭和19年3月□日消印の社団法人日本美術報国会*1からの葉書を紹介しよう。
 文面は、同会が企画した必勝絵馬が総点数4,340点、揮毫者2,169名(3月3日現在)となり、同月中に陸軍に献納する運びとなったとの報告である。また、献納に先立ち同月8日から12日まで三越本店で情報局後援の下に展示会を開催する旨の案内も記載されている。
 朝日新聞昭和19年2月2日朝刊には、「”決戦の翼“飾る絵馬/美報会員が彩管*2突撃」の見出しで、日本美術報国会による絵馬献納に関する記事が載っている。これによれば、第一線に出撃する勇士達の狭い飛行機や戦車の内部における激戦の合間の徒然を慰めるため、慰問用の絵馬を会長の横山大観以下藝術院会員、美報代議員、正会員計2,280名が各自1枚制作して陸軍記念日の3月10日までに陸軍省へ献納する予定であった。ところが、上記のとおり実際には陸軍記念日までに献納されず、同会が置かれた三越本店で展示会が開催された。1人1点ではなく、1人2点制作することになり、遅れたのかもしれない。
 飯野正仁編『戦時下日本美術年表:1930→1945』(藝華書院、平成25年9月)によれば、陸軍省に献納されたのは3月27日である。なお、海軍省にも献納が行われた。同年表に5月三越で展示会が開催された後、6月28日海軍省に2,681点が献納されたとある。
 必勝絵馬を献納した日本美術報国会がどのような団体であったかを見てみよう。『日本文化団体年鑑:昭和十八年版』(日本文化中央聯盟、昭和18年12月)から要約すると、

社]団法人日本美術報国会
所在地 東京都日本橋区室町一ノ七三 三越本店内
役員 会長 横山大観
   理事 安田靫彦、野田九浦(第一部会長)、山口蓬春、石井柏亭、辻永(第二部会長)、木村荘八、斎藤素巌、石井鶴三(第三部会長)、加藤顯清、香取秀真、高村豊周(第四部会長)、山崎覚太郎、児玉希望
    監事 大智勝観、太田三郎、関野聖雲、北原千鹿
組織 第一部(日本画)、第二部(油絵水彩)、第三部(彫塑)、第四部(工芸美術)。会員は美術家及び美術関係者
目的 肇国の精神の下に全日本美術家の総力を結集して、皇国の伝統と理想とを顕現する日本美術を振興し、進んで文化総動員の実を挙ぐ、以て大東亜文化の建設に挺身する
事業 一 皇国美術観の確立
   二 美術による国策宣揚並に戦力増強
   三 美術家の錬成
   四 国民精神の作興並に国民資質の向上
   五・六 略    
   七 戦争美術の振興
   八 皇軍将兵及産業戦士の慰問激励
   九~一八 略
沿革 昭和18年5月18日創立

 事業八の皇軍将兵の慰問激励の一環として、必勝絵馬の献納が行われたことになる。このような戦争協力を行った日本美術報国会は戦後役員が公職追放に該当する団体に指定される可能性があった。しかし、結局は指定されなかった。念のため上記大観会長以下の役員について『公職追放に関する覚書該当者名簿』(日比谷政経会、昭和24年*32月)を見ても、全員記載されていない。
 櫻本富雄が大部の『日本文学報国会:大東亜戦争下の文学者たち』(青木書店、平成7年6月)を刊行した社団法人日本文学報国会も指定されなかった。社団法人大日本言論報国会が指定されたのに対し、日本文学報国会が指定されたなかった経緯については、赤澤史朗・北河賢三編『文化とファシズム:戦時期日本における文化の光芒』(日本経済評論社、平成5年12月)の赤澤史朗「大日本言論報国会ー評論界と思想戦ー」に次のような記述がある。

団体解散令や公職追放を、GHQの中で担当したのは民政局である。その民政局の文書「日本文学報国会に関する調査」によると、民政局では言論報国会については、「強力な思想団体としての実体を有し思想戦遂行のための指導的影響力を実際に扱う存在」であったとして強力なファッショ的統制団体と位置づけているのに対し、日本文学報国会に対しては「単に芸術諸団体の範囲の一組織に過ぎない」との評価を下している。(略)

 この民政局の文書は、同書の注に国会図書館憲政資料室の所蔵とある。日本美術報国会に関する民政局の文書もどこかに残っているだろうか。そして、7千枚以上制作された必勝絵馬もどこかで見つかるだろうか。

*1:しばしば「大日本美術報国会」と誤記されているので、注意

*2:「彩管」は絵筆のことで、葉書の文面にも「彩管奉公」とある。

*3:奥付には昭和23年とあるが、正しくは昭和24年であることは「死してなお公職追放となった満川亀太郎 - 神保町系オタオタ日記」を参照

京都古書会館の古本まつりで河合卯之助の葉書を


 先月の京都古書会館の古本まつりには、一時間ほど遅刻。それでも、シルヴァン書房から葉書2枚と本1冊を購入できた。今回紹介する昭和10年6月30日付け河合卯之助から高槻の吉田健治宛葉書は、300円。
 文面は一部しか解読できないが、「昨暁の大雷雨」がすさまじく、吉田のことを案じ、見舞う内容のようだ。昭和10年6月29日の「大雷雨」は、京都や大阪に大きな被害をもたらした。『京都府百年の年表7』(京都府、昭和45年3月)によれば、「梅雨前線による豪雨で市内各所の河川氾濫。未曽有の被害、死傷者83名、家屋被害43,289戸、鴨川氾濫により三条・五条大橋はじめ56橋流出」の被害があった。この鴨川大洪水の絵葉書はよく見かけますね。宛先の吉田が住む高槻の芥川も決壊寸前になったようだ。なお、吉田の経歴は不詳。
 昭和3年に向日窯を開窯した河合邸には、大きな被害はなかったようだ。河合紀編『河合卯之助遺文』(用美社、昭和58年3月)の略年譜には、昭和10年の条は存在しない。この年の河合の活動を同書収録の随筆から作成しておこう。

昭和10年冬 朝鮮旅行で李王家博物館を観たり、李朝の陶器を購入した*1
同年5月 京都大毎会館へバーナード・リーチの個展を観に行き、富本憲吉と出会う*2
同年11月15日 恩賜京都博物館へ本阿弥光悦展覧会を観に行く*3

 『河合卯之助遺文』の序文は、壽岳文章である。「河合さん一家とは、卯之助さん亡きあとも親近を重ねて今日に至っている」とあり、昭和8年から向日町に住んでいた壽岳は同じ向日町の文化人として河合と親しかったようだ。

*1:『河合卯之助遺文』の「冬の朝鮮」(昭和10年2月)

*2:『河合卯之助遺文』の「窯辺近事」(昭和10年6月)及び『生誕125年バーナード・リーチ展』(朝日新聞社平成24年)の年譜

*3:『河合卯之助遺文』の「光悦展を見て」(昭和10年12月)及び『日本美術年鑑昭和十一年版』(美術研究所、昭和11年10月)の「主要美術展覧会」

「聖戦技術協会」改め「常民生活科学技術協会」と渋沢敬三ー公文書館を使おうー


 @wogakuzuさんが《大川町の柳は大大阪の夢を見るか?》
https://twitter.com/wogakuzu/status/1751923395170857416#
をポスト。大大阪時代に淀屋橋南詰から西へ土佐堀川沿いにあった大川町遊歩道について調べて漫画にしたもので、とても面白くかつ勉強になった。特に大阪市公文書館で青焼きの設計図を発見していて感心した。
 私も調べるのは好きな方だが、古本漁りのほかはもっぱら図書館とネットに頼っていて、公文書館は使ったことがなかった。そこで、試しに国立公文書館の資料検索機能で二つのワードを調べてみた。「旅する巨人宮本常一と七三一部隊に協力した亀井貫一郎の聖戦技術協会 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した「聖戦技術協会」とそれを改称した「常民生活科学技術協会」である。さすがに前者は敗戦直後に関係文書を廃棄したようでヒットしない。ところが、後者はヒットした。「財団法人常民生活科学技術協会聯合国最高司令部第三一般命令ニ基ク協会概況報告(昭和20年)」である。「公開」とあるので、即日閲覧できるようだ。
 七三一部隊につながる聖戦技術協会が戦後常民生活科学技術協会に改称されたのは、戦時中にアチックミューゼアムを日本常民文化研究所に改称した渋沢敬三の入れ知恵だった可能性がある。渋沢は宮本常一を聖戦技術協会に取り込んだ人物だが、そもそも聖戦技術協会との関係が不明である。国立公文書館が所蔵する文書により謎の組織に迫れるだろうか。

牧野富太郎より知名度が高かった鳥居龍蔵の小学校退学問題


 平安蚤の市で独学修養会『名士成功実話:立志奮闘』(独学修養会、昭和8年4月初版・15年4月10版)を200円で購入。よくある独学者達の成功物語だが、田山花袋、私が私淑する鳥居龍蔵、最近旧蔵書が古書市場に出て話題の長谷川伸などが載っているので購入。非売品の冊子(63頁)である。どうせ国会図書館が所蔵してるだろうと思いながら買ったら、国会図書館サーチで全くヒットしないので、ホクホク。

 鳥居龍蔵については、次のような記述がある。

 紋章学の沼田頼輔、植物学の牧野富太郎、人類学の鳥居龍蔵、この三学者に対して夙に世に独学三博士の称がある。してこの中で、牧野、沼田両博士の名はよし気付ずとも、鳥居博士の名丈は恐らく誰も知らぬ人はあるまい。

 沼田は論外として、牧野よりも鳥居の方が世に知られた存在とすることに驚いた。現在では牧野の名前はよく知られているが、鳥居を知る人は一部の研究者や出身地である徳島県の人ぐらいではないだろうか。牧野の方は、新橋や神保町の通行人に聞けば、朝ドラ「らんまん」効果もあって100%近くの人が知っているだろう。一方、鳥居の方は、新橋では10%未満、本好きの人が多そうな神保町でも10%を超えるかどうか。徳島県立鳥居龍蔵記念博物館の図録を売ってるすずらん通りの東方書店に出入りする客に聞けば、もっと多いかもしれない。
 牧野はもっぱら植物学の学者で、それに対して鳥居は考古学、人類学、民族学の学者であるほか、写楽に関する論考など幅広い分野で活躍した。国会図書館サーチで「出版年」を「~1933」に限定して、「著者・編者」をそれぞれで検索すると、牧野の277件に対して、鳥居は327件である。「ざっさくプラス」で同様に検索すると、牧野は80件、鳥居は754件もヒットする。やはり、鳥居の方が一般人が接する機会は多かったのかもしれない。
 また、本書には鳥居が「正式に小学校の課程すら踏まれて」いないことや小学校時代にしばしば落第したことが書かれている。これは、鳥居自身も『ある老学徒の手記』(朝日新聞社、昭和28年1月)で「私は尋常一、二年級の間に、二度落第した」、「小学二年の中途で退学された」と書いている。ところが、最近の研究によれば小学校退学は誤りで、卒業していたようだ。
 徳島県立鳥居龍蔵記念博物館鳥居龍蔵を語る会編『鳥居龍蔵の学問と世界』(思文閣出版、令和2年12月)の天羽利夫「人類学者鳥居龍蔵の学問と人物像」によれば、鳥居の遺品から卒業証書が11通確認され、

長谷川は、現存する証書からすると「後の小学校尋常科に相当する下等科を終えており、小学校教育における一定の区切りをつけていたこと、小学校を退学しているが少なくとも公式には二年中退の退学ではなかった」と推論している*1

 鳥居は、小学校の少なくとも下等科は卒業していたことになる。本人の回想は当てにならないものである。更に『ある老学徒の手記』で教師と卒業証書の重要性を巡って「むしろ家庭にあって静かに勉強して自己を研鑽して学問をする方が勝っている」と主張したとある点も、今回入手した本では校長との議論だった。出典は「小学校時代の回顧談」のようだが、具体的には不明である。校長とのやり取りが詳しく書いてあるので、情報提供として写真を挙げておく。
参考:「鳥居龍蔵の次男鳥居龍次郎に「先ずは鳥居龍蔵全集を読んで」と言われたオタどん - 神保町系オタオタ日記

*1:長谷川賢二「鳥居龍蔵の小学校学歴に関する資料と検討ー履歴書・回顧文・卒業証書」『徳島県立鳥居龍蔵記念博物館研究報告』3号,徳島県立鳥居龍蔵記念博物館,平成29年3月。「https://torii-museum.bunmori.tokushima.jp/download.html」から読める。

竹内栖鳳門下の土肥蒼樹と新しき村の上田慶之助・高橋信之助


 数年前から寸葉さん(骨董屋)の所に、徳岡神泉宛書簡が出ている。ただ、これはというものがなくて私は買っていない。同じく竹内栖鳳門下で神泉に比べると知名度が劣る土肥蒼樹宛の書簡も以前から寸葉さんで見かける。こちらは数枚持っているので、今回そのうちの1枚を紹介しよう。
 昭和16年10月3日付け高橋信之助から京都市の上田慶之助気附蒼樹宛絵葉書である。絵葉書は、新しき村東京支部から発行され、鳩居堂で10月7日から10日まで開催される武者小路実篤個展の案内*1が印刷されている。
 高橋及び上田は、共に新しき村の村内会員だった人物である。『志賀直哉全集』16巻(岩波書店、平成13年2月)の「日記人名注・索引」から経歴を要約しておこう。

上田慶之助 明治31年2月-昭和63年8月。大正9年新しき村の村内会員。昭和8年村外会員となり、故郷の京都において長兄*2の経営する上田善株式会社で紋染意匠を担当して、後に財団法人新しき村理事長

高橋信之助 明治34年5月-昭和62年10月。大正11年新しき村の村内会員。昭和15年まで日向で生活。後藤真太郎の座右宝刊行会に入り美術品の取扱いに熟練し、昭和17年から村の東京支部がある神田・新村堂に勤め、武者小路実篤の絵を扱った。

 実篤が宮崎県に新しき村を創設したのは大正7年なので、2人とも初期の村内会員であったことになる。一方、蒼樹の経歴は、『日本美術年鑑:昭和十五年版』(美術研究所、昭和16年8月)の「美術家及美術関係者名簿」によれば、

土肥蒼樹 (日)名健治、明治28年兵庫県生。竹内栖鳳に師事、旧帝展、文展出品。明石市太寺2丁目太寺公会堂前

「日」は、日本画

 蒼樹と新しき村との関係は、不明である。調布市武者小路実篤記念館の「収蔵品データベース」で「土肥蒼樹」を検索してもヒットしない。入手した葉書には、高橋による書き込みで、すっかり御無沙汰していること、上田から精進の様子を聞いていること、上田と一緒に展覧会に来ていただけたらと惜しむことなどが記されている。蒼樹が上田や高橋とある程度親しかったことがうかがえる。
 上田と蒼樹との交流は、神戸市出身の直木孝次郎の回想でもうかがえる。直木『山川登美子と与謝野晶子』(塙書房、平成8年9月)の「梨と彼岸花ー上田慶之助さんを偲ぶー」から引用すると、

昭和十三年お嬢さんの健康のため、居を明石の人丸神社の近くに移された。(略)このころから神戸にあった私の家との交流が頻繁になる。(略)『新しき村』の本年(一九八八年)五月号に載った上田さんの絶筆ともいえる文章『年月』に、竹内栖鳳門下の画家土肥蒼樹さんの入手された中国泰山の拓本の絶品を携えて私の父に見せにこられた話があるが、この時期のことである。

 ちょうど今、嵐山の福田美術館で「進撃の巨匠竹内栖鳳と弟子たち」展が開催中である。神泉は出品されているが、残念ながら蒼樹は出品されていない。機会を見て、残る蒼樹の葉書も紹介したい。

*1:この案内文は、『武者小路実篤全集』18巻(小学館、平成3年4月)に細川護立宛のものが収録されている。

*2:『人事興信録:昭和九年版』(人事興信所、昭和9年10月)によれば、明治29年4月上田利三郎の長男として生まれた上田善一郎。大正15年鹿の子紋商を継いだ。

へちま倶楽部の『金曜』創刊異聞ー忍頂寺務宛の増田五良・西村貫一書簡がネットで読めるよー

 
みなと元町タウンニュース』(みなと元町タウン協議会)では、平野義昌「海という名の本屋が消えた」が引き続き連載中。「元町の月刊タウン誌「みなと元町タウンニュース No.368」発行|みなと元町タウンニュース|元町マガジン|神戸の良さが元町に、神戸元町商店街」掲載分の「西村旅館(5)」で拙ブログ「へちま倶楽部の西村貫一と雑誌『金曜』(へちま文庫)ーー『金曜』の終刊時期はいつかーー - 神保町系オタオタ日記」に言及していただいて、あらためてありがとうございます。
 さて、西村旅館の経営者だった西村貫一が創立したへちま倶楽部の機関誌『金曜』について、面白いネタがある。このブログで何度か言及した『近世風俗文化学の形成ー忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺』(国文学研究資料館平成24年3月)の内田宗一「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録・解題(附・差出人氏名リスト)」である。ネットで読めます。→「「近世風俗文化学の形成」成果報告」ここには、西村13通、へちま倶楽部4通、増田五良(『金曜』編集同人)9通の書簡が含まれている。このうち、昭和23年12月28日付け消印の増田書簡の内容要約を引用しよう。

金曜会は絶えることなく続いている。11月末の時は高安六郎氏に話をしてもらい、盛会。会からポケット型の『海光』という小冊子を出そうという話が出ていて、自分と長田氏*1が編集を担当する。1月末には創刊できそうである。ついては、貴方が『読書展望(ママ)』寄稿用に書いた「よしこの節に就て」の原稿を載せてもよいか。 

( )内は、内田氏による注

 「小冊子」は、内田氏が同目録の備考欄に記しているとおり、『金曜』のことで、創刊号(昭和24年1月発行)に忍頂寺の「よしこの節」が掲載された。この書簡により、『金曜』は発行直前までタイトルは『海光』で進められていたことが分かる。いかにも港町神戸らしいタイトルですね。

*1:『金曜』編集同人の長田富作

『上方』創立期の南木芳太郎と建築家池田谷久吉


 1月13日みやこめっせで開催された文学フリマ京都で、『上方:お化け研究』(上方お化け研究会、令和5年12月)を購入した。表紙や目次が見事に南木芳太郎が主宰した『上方:郷土研究』へのオマージュとなっている。
 上方郷土研究会編『上方』は、南木により昭和6年1月創刊された。その直前の南木の日記『南木芳太郎日記一』(大阪市史料調査会、平成21年12月)に次のような記述がある。

(昭和五年)
十二月三十日
(略)東京藤田徳太郎氏、池田谷久吉氏、木谷蓬吟氏、名古屋石田元季氏*1後藤捷一*2、菅竹浦氏各方面へ「上方」寄贈の手数をする。(略)

 『上方』創刊号を献本された人の中に、池田谷久吉(いけだや・ひさきち)の名前がありますね。池田谷については、昨年10月から12月*3にかけて出身地である泉佐野市の歴史館いずみさので「泉佐野の建築家ー池田谷久吉とその生涯ー」が開催された。図録の年表から、昭和6年前後の経歴を引用しておこう。

明治30年4月 泉南郡佐野町生
大正6年3月 市立大阪工業学校建築科卒
大正11年2月 大阪府建築監督官補任命
大正15年8月 大阪府庁退職
同月 池田谷建築事務所創立
昭和4年 大阪府史跡名勝天然記念物調査委員任命
昭和8年5月 京阪電鉄株式会社業務嘱託

 南木と池田谷がいつどのようにして知り合ったのかは、不明である。池田谷の没後60周年記念に刊行された池田谷胤昭編『建築家・郷土史家池田谷久吉の生涯』(池田谷恵美子、平成31年2月)に抄録された古川武志「地域社会における郷土史の展開ー泉州地域を中心としてー」『ヒストリア』大阪歴史学会,平成13年1月は、「『上方郷土研究会』の創立メンバー」としている。この典拠は不明で、池田谷が『上方』に初登場したのは3号(昭和6年3月)の「昭和四天王寺建築図絵」である。
 前掲資料集には、没後50周年記念誌に掲載された「池田谷久吉宛て書簡」が再録されている。これによると、末永雅雄、水谷川忠麿、中村直勝、関野貞*4、藤島亥治郎、滝澤真弓、伊東忠太、魚澄惣五郎、石田茂作、西山夘三、小川翠村、向井久万、出口神暁らからの書簡・葉書が残っていることが分かる。南木からの書簡は残っていないだろうか。
 1年前に亡くなられた青田寿美先生から御恵投いただいた『近世風俗文化学の形成ー忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺』(国文学研究資料館平成24年3月)の内田宗一「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録・解題(附・差出人氏名リスト)」に19通の南木からの書簡の内容要約が載っている。あらためて青田先生の御冥福をお祈りします。
 昭和5年12月23日付けの忍頂寺宛南木書簡の内容を引用しておこう。

便箋1枚。印刷物1点。玉稿を給わり、お蔭で創刊号を飾ることができた。しかし、20日発行の予定が送[ママ]れ、25日に発行すべく目下印刷中。出来次第送付する。湯朝竹山人の現住所を知っていたら、雑誌を送りたいので知らせてほしい。『上方』創刊号のチラシを同封。

 「玉稿」とは、忍頂寺が創刊号に寄稿した「東山絵巻その一 二けん茶屋」である。創刊号に記載された印刷日は昭和5年12月25日、発行日は昭和6年1月1日である。南木の日記によれば、昭和5年12月25日には初摺を仮綴にした1部だけを受け取っている。翌26日に製本50部を受け取り、早速梅谷紫翠、川崎巨泉、中井浩水*5、富田*6やマスコミ(大阪朝日新聞、夕刊大阪新聞)、高尾彦四郎(高尾書店)らに渡している。池田谷に渡したのは30日以降なので優先順位が低かったことが分かる。
 池田谷は、『昭和前期蒐書家リスト:趣味人・在野研究者・学者4500人_』(トム・リバーフィールド、令和元年11月)に蒐集分野「古建築、古美術、史蹟、考古学」*7と挙がっている人物でもある。今後も注目していきたい。