神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

昭和5年名古屋で開催された怪談会ーーモズブックスで買った中西竹山宛佃野由兵衞葉書からーー


 先日の阪神百貨店の古本まつりにモズブックスが参加することになって、驚いた古本者も多かっただろう。中之島公会堂の古本まつりの中止が何年も続き、絵葉書など紙もののマニアがモズの出店を待望していたが、ようやく実現したわけだ。ただ、日本絵葉書会の面々には情報が伝わっていなかったようで、いつもモズの絵葉書台を占拠するお歴々の姿は見かけなかった。
 今回は、モズから入手した昭和5年5月26日付け消印の佃野由兵衞(名古屋市)の中西竹山(大阪市)宛葉書を紹介しておこう。文面に「なごや怪談会開催に当り結構なる記念□の御恵贈を給り」云々とあるので、買ってみた。趣味人の絵葉書にはあまり関心が無くなったが、「なごや怪談会」に惹かれたのである。
 竹山は大阪の趣味人の団体娯美会の一員*1で、本名を康雄という食料品商で主に各地の旅館カードを集めた。その他のメンバーや蒐集品については、森田俊雄『和(なごみ)のおもちゃ絵・川崎巨泉:明治の浮世絵師とナニワ趣味人の世界』(社会評論社、平成21年5月)138・139頁に載っている。巨泉*2のほか、三宅吉之助、三好米吉、田中緑紅*3、梅谷紫翠、青山一歩(人)、岸本水歩*4、粕井豊誠、河本紫香、西田静波、村松百兎庵らがメンバーであった。
 佃野は、「書砦梁山泊から伝記特集の古書目録 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した『多納趣味』の発行人である。湯本豪一編『昭和戦前期怪異妖怪記事資料集成』(国書刊行会、平成29年2月)にも記載のない「なごや怪談会」については、同誌に記載があるかもしれない。
 竹山宛絵葉書は数年前からモズが出品していて、私も数枚買ったことがある。ところが、倉庫にどえらい物が残っていたようで、竹山宛に面茶会のメンバーが寄せ書き(肉筆)した絵葉書を今回ヲガクズさん(@wogakuzu)が入手し、趣味人の絵葉書コレクターを羨ましがらせた。
 

*1:菅野新一監修、土橋慶三・西田峯吉編著『こけし事典』(岩崎美術社、昭和43年9月)によると、竹山は紫香を世話人とする郷土玩具愛好団体「やつで会」(昭和4年~12年)のメンバーでもあって、他には一歩人、豊誠、百兎庵、塩山可圭、西田亀楽洞(静波)、紫翠、芳本倉多楼がいた。

*2:『日本人形史』の山田徳兵衛から中山香橘宛年賀状(昭和12年)ーー百鈴会の川崎巨泉と中山香橘ーー - 神保町系オタオタ日記」参照

*3:今、田中緑紅が熱い⁉ 『信仰と迷信』創刊号(郷土趣味社、大正15年)と『ちどり』4号(ちどりや、同年) - 神保町系オタオタ日記」参照

*4:川柳家岸本水府の青年時代 - 神保町系オタオタ日記」参照

京都帝国大学総長山川健次郎とヤルート島学術調査ーー坂野徹『〈島〉の科学者』(勁草書房)への補足(その2)ーー


 『山川健次郎日記:印刷原稿第一~第三、第十五』(芙蓉書房出版、平成26年12月)を見ていたら、第一次世界大戦で海軍が占領したヤルート島等の南洋新占領地における学術調査に関する記述があった。

(大正三年)
十一月九日
出。ヤルート島行の事にて中村氏に電報を発す、同伴にて水野学長来室。
松浦氏よりヤルート島行きに関し手紙来る。
(略)
十二月十八日
(略)
法科の助教授山本美越乃氏ヤールトツ[ママ]の事にて来宅。
(略)
(大正四年)
二月十二日
(略)毛戸氏(山本助教授ヤルイト島行の件)、来室。
(略)

 山川は、当時東京帝国大学総長兼京都帝国大学総長。「中村氏」は東京帝国大学理科大学教授の中村清二だろうか。「水野学長」は京都帝国大学理科大学学長の水野敏之丞。「松浦氏」は京都帝国大学医科大学教授の松浦有志太郎だろう*1。「毛戸氏」は、京都帝国大学法科大学学長の毛戸勝元、「山本美越乃」は同大学助教授である。山本の調査は、坂野徹『〈島〉の科学者:パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』(勁草書房、令和元年6月)20・21頁にまとめられた「図表1-1『南洋新占領地視察報告』(正編1916、追録1917)調査概要」(以下「調査概要」という)では、「行程(船名)不明」に分類されている。
 「調査概要」で第1陣(大正3年12月20日横須賀発、4年2月13日帰還(神奈川丸))に分類された京都帝国大学医科大学助手の楢林兵三郎と京都帝国大学文科大学助手の内田寛一も出てくる。

(大正四年)
三月十一日
出。南洋より帰れる医学士楢林兵三郎、文学士内田寛一来室し旅行中の話を為す。(略)

 「調査概要」に記載はないものの、坂野著39頁の注4で報告書を提出していないが視察に参加した学者として挙げる東京帝国大学理科大学教授の山崎直方も登場。

(大正四年)
二月廿四日
出。山崎直方氏来室(ヤルイト島行きの件)。
(略)

 面白いのは、滞在期間が短いことを理由に南洋行きを断った事例が記されていることである。

(大正三年)
十一月廿七日
出。朝七時十分京都駅着。官邸に入り後出勤す。
荒木学長を呼び松下氏の事を話す。
毛戸氏、水野氏来室、松下氏滞在の短き理由にてヤールト行きを断る。今朝松下氏の事につき東京へ送電せしも遂に又送電して之を取消すに至る。
(略)

 「荒木学長」は京都帝国大学医科大学学長の荒木寅三郎なので、「松下氏」は同大学で衛生学講座を担任していた松下禎三教授と思われる。この調査期間の短さには、坂野著にも言及されていて、各離島間を移動するだけで時間がかかるため、実際に現地調査にあてられる時間は少なかった。第1陣の約2ヶ月に及ぶ乗船日数のうち碇泊日数は僅かに18日に過ぎなかったという。山川総長が一旦段取りをしたにもかかわらず、滞在期間の短さを理由に参加を断った例があったとは、非常に興味深い。
参考:「南洋新占領地へ修学旅行に行く山本宣治から三高同級生山田種三郎宛絵葉書ーー坂野徹『〈島〉の科学者』(勁草書房)への補足ーー - 神保町系オタオタ日記

*1:追記:むしろ文部省専門学務局長の松浦鎮次郎と思われる。

『姫路の史蹟』(昭和15年)を書いた兵庫の郷土史家島田清ーー昭和戦前期における「観光コース」の使用例ーー


 島田清『姫路の史蹟:特ニ増位観光コースの史蹟』は、平安蚤の市で200円で買ったのかな。昭和15年2月3日に姫路商工会議所で行った講演の概要のようだ。目次を挙げておく。

 未知の人物だが郷土史家と思われる島田清や「観光コース」という用語に惹かれて、購入。島田の経歴は、『ふるさとの遺香:兵庫県文化財アルバム』(のじぎく文庫、昭和34年9月)の「著者略歴」から要約すると、

明治44年 神戸市生
昭和6年 姫路師範卒
? 県立兵庫高校教諭
戦後 教育委員会に入り、社会教育課文化係長
長年郷土研究に従い『明石城』他10数著

 これに補足すると、グーグルブックスによると、その後姫路学院女子短期大学教授になったようだ。
 「観光コース」という言葉が戦前からあったのには、驚いた。読売新聞・朝日新聞のデータベースや「ざっさくプラス」では、戦前の使用例は無かったので、戦前期ではあまり定着した用語ではなかったのだろう*1国会図書館サーチでは、猪野里親編『別府案内地獄めぐり:観光記念』(竜古堂出版部、昭和2年頃)の部分タイトルに「観光コース略図」とあるのが、最も古いようだ。「次世代デジタルライブラリー」では、昭和13年衆議院に「名護屋村ヲ起点トシ唐津市嬉野町ヲ経テ雲仙ニ至ル国際観光コース建設ニ関スル建議案」が提出されたことが分かる。

*1:読売新聞埼玉版昭和8年9月23日朝刊に「探勝コース」という例はある。

昭和7年桑原武夫が顧問を務めた大阪高等学校仏蘭西科学会の『La Science』


 先日の「たにまち月いち古書即売会」で、厚生書店の棚から見慣れぬ雑誌を発見。『La Science』4号(大高仏蘭西科学会、昭和7年*1)で、112頁、500円。巻頭に桑原武夫教授「感想」が載っていたので、買ってみた。国会図書館サーチでは、ヒットしない。ただ、雑誌自体は研究者に知られているようで、『桑原武夫全集』7巻(朝日新聞社、昭和44年3月)の「全著作目録」中に『フランス印象記』(弘文堂書房、昭和16年6月)所収の「ファーブル博物館」の初出として、「(大阪高校、ラ・シァンス、37年号)」との記載がある。人文研が所蔵する旧蔵書の中に本誌は含まれているだろうか。

 目次を挙げておく。「仏蘭西文学会」ではなく、「仏蘭西科学会」とあるとおり、自然科学も含めた幅広い分野に及ぶ内容である。植田輝一「京電工より」によれば、「フランス科学の雑誌 La Science の本来の目的は、フランス語を通じてのScience の研究を主とし、此のために先輩や在学生の方々の研究せるところを発表いたすのであります」とあるところである。
 桑原の「感想」は、フランスでは文化のあらゆる方面に「科学」が及んでいるのに対し、日本では文章にまで「科学」が感じられる思想家・芸術家が少ないとし、本誌への期待を述べている。桑原は、昭和7年4月に大阪高等学校教授に就任*2。本誌108頁に「吉報」として、本会の顧問に就任することが報告されている。続いて、桑原の顧問就任を喜ぶ文面が載っている。会が続いていれば、昭和18年東北帝国大学法文学部助教授就任まで顧問を続けたのであろう。

*1:奥付に発行年月の記載はない。幾つかの原稿に昭和7年7月又は10月の日付の記載があるほか、桑原武夫の原稿末尾に「(12.5)」とあるので、昭和7年末か8年当初に発行されたと推測する。

*2:全集の年譜による。ただし、『桑原武夫の世界:福井県ふるさと文学館「没後30年桑原武夫展」の記録』(京都大学人文科学研究所、令和2年3月)の略年譜にある昭和7年3月大阪高等学校フランス語科講師、同年9月教授の方が正しいと思われる。

下鴨納涼古本まつりの最終日に福沢諭吉『京都学校の記』(書籍会社、明治5年?)を拾う


 今年も無事下鴨納涼古本まつりが開催された。今回は書物蔵氏と森洋介氏が後半に上洛された。私の方は、初日から参戦しているので既にお腹一杯であったが、最終日に最後の最後にのぞいた三密堂書店の特価本コーナーで驚くべき1冊を見つけた。500円。
 冒頭の写真に挙げた福沢諭吉『京都学校の記』*1(書籍会社*2、明治5年?)である。「三密堂書店で槙村正直『私用文』(書籍会社、明治7年)を発見ーー「夢見る京都集書院」の世界ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したことがある本で、まさか原本を入手できるとは思わなかった。古本まつりの最終日の午後でも、思わぬ掘り出し物を見つけられるものである。国会図書館にはなく、京都学・歴彩館のほか、幾つかの大学図書館が所蔵している*3。本家の慶應義塾図書館には無いようだが、『福沢諭吉全集第20巻』(岩波書店、昭和38年6月)に収録されている。同書の註によれば、福沢が明治5年春に中津市学校を視察するため郷里の中津に赴く途中、京阪神や有馬等に遊んだ時の作品である。数種の写本が残っているほか、木版本として本書が刊行されたという。

 本書には、発行年の記載はない。ただ、末尾に「明治五年申五月六日京都三条御幸町の旅宿松屋にて/福沢諭吉記」とあるので、明治5年頃刊行されたと思われる。また、冒頭に「書籍会社」の印が押されている。歴彩館の所蔵している分には同印のほか、「京都府文庫」印が押されているようだ。三密堂書店からは、本書の他にも槙村正直『私用文』(書籍会社、明治7年)を店内の特価本台から拾っているので、それも本書の表紙に記載のある「井上」の旧蔵書だったのかもしれない。

*1:内題に「京都学校の記」とあるほか、標題と版心に「京都学校記」とある。

*2:奥付に「京都書籍会社」とあるが、正式名称は単に「書籍会社」と思われる。

*3:上田正昭の序文付きで、平成6年9月京都市教育委員会から平安建都1200年・小学校創設125年記念として復刻版が出ている。

古書柘榴ノ國で井上女神が創立した神九図之会の10周年記念誌『神九図』(昭和55年)を発掘


 今年も下鴨納涼古本まつりが始まりました。シルヴァン書房が参加しているので、てっきり寸葉さんこと矢原さんが絵葉書を出品していると思いきや、不参加であった。ヲガクズさん(@wogakuzu)の情報によると、「下鴨は卒業」されたらしい。そう言えば、寸葉さんから下鴨の案内状が来てなかった。
 寸葉さんの師匠井上女神が主宰した神九図之会については、「京都で神九図之会を主宰した年賀状コレクター井上女神(井上未喜知)ーー寸葉会の矢原章さんの師匠ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したことがある。その後、創立10周年記念誌『神九図』(神九図之会、昭和55年8月)を奈良の古書柘榴ノ國で見つけたので、表紙と目次の写真を挙げておく。


 どんな物でも蒐集する人がいるようで、特に妻楊子袋とかピンクカードを集めてどうするのかと思うが、古本や絵葉書もまったく興味の無い人から見たら、同じように思われているかもしれない(^◇^;)
 本書の井上会長「はじめに」によると、

(略)京都では戦後コレクターの集る会が無かった。そんな折、私の蒐集品のうち箸袋を並べての個展を、新京極花月劇場三階で催したところ、駆け付けて呉れた趣友達が、一度集まって快談会(こころ良く語り合うの意)でもやろうじゃないかと衆議一決。
 そして十年前の八月九日第二日曜に集ったが、話は弾み女三人寄ればどころか、男七人で楽しく且つ賑やかな集いとなった。

 7人で始まった神九図之会というコレクターの交換会。昭和55年8月10日現在の会員名簿によると、113人に拡大している*1。関西だけでなく、東京、愛知県などにも及んでいる。また、「神九図之会十年のあゆみ」によれば、昭和53年会員が京都新聞の源流である幻の新聞を発見して京都新聞社から表彰されたようだ。このように京都で一世を風靡した神九図之会のことを今どれだけの人が記憶しているだろうか。
 冒頭の写真で挙げた井上の蔵書票と昭和58年新年総会記念交換会時の食券(?)は、@pieinthesky氏からいただきました。ありがとうございます。また、井上女神が井上未喜知として掲載されているトム・リバーフィールド『昭和前期蒐書家リスト』(令和元年11月)は第2刷が発行され、8月13日のコミケ100の「土曜日東地区”ペ“30a」で販売されるようだ。

*1:この段階では、矢原さんの名前はない。

玄洋社役員・社員の公職追放一覧ーー嵯峨隆『頭山満』(ちくま新書)への補足ーー


 一時期福岡市には出張で行くことが多く、帰りに福岡市美術館福岡県立美術館や古本屋の葦書房には必ず寄ったものである。しかし、玄洋社記念館に寄る機会がないまま同館は無くなったので、惜しいことをしたものである。
 さて、昨年10月ちくま新書から嵯峨隆『頭山満アジア主義者の実像』が刊行された。頭山が新書になるとは、良き時代ですね。本書や石瀧豊美『玄洋社:封印された実像』(海鳥社、平成22年10月)では、戦後超国家主義団体の一つとして玄洋社へ解散命令が出されたことには言及されている。しかし、玄洋社が昭和22年勅令第1号公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令の施行に関する命令(昭和22年閣令内務省令第1号)別表第1第3号により時期の如何を問わず創立者・役員・理事等が公職追放の対象となる極端な国家主義的団体に指定され、多くの役員が公職追放になったことには言及されていない。そこで、石瀧著の「玄洋社社員名簿」を基に『公職追放に関する覚書該当者名簿』の復刻版(以下「名簿」という)から公職追放になった玄洋社の主な役員・社員の公職追放該当事項(玄洋社役員以外の該当事項を含む)を列挙してみた。

氏名   該当事項       地方別
緒方竹虎 国務相情報局総裁翰長 東京
香椎源太郎 東洋拓殖顧問 福岡
白石芳一 玄洋社監事評議員 福岡
進藤一馬 玄洋社理事社長東方会幹事 福岡
末永節 玄洋社理事 福岡
副田直規 玄洋社評議員 (空欄)
高場損蔵 武徳会理事銃剣道部長 福岡
土屋直幹 玄洋社理事 福岡
頭山泉 玄洋社理事 福岡
頭山秀三 著書天行会々長 東京
箱田達磨*1 玄洋社理事評議員 福岡
原口初太郎 正規陸軍将校 東京
広田弘毅 戦犯 神奈川
増永元也*2 玄洋社理事評議員 福岡
宮川五郎三郎 玄洋社理事 福岡
安川第五郎 玄洋社理事 東京
山内惣作 玄洋社理事監事 福岡
山座三郎 玄洋社理事 福岡
山崎和三郎 玄洋社理事相談役 福岡
吉田こくら*3 玄洋社理事相談役 福岡

 頭山自身は、昭和19年10月に亡くなっているので公職追放にはなっていない。戦後も健在であれば、「玄洋社創立者」として公職追放になっただろう。なお、「「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」が完成 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したように出版・新聞・映画・放送・著書・陸海軍文官関係者の公職追放については、トム・リバーフィルド「『公職追放に関する覚書該当者名簿』のメディア関係者・文化人五十音順索引」『二級河川』17号(金腐川宴游会、平成29年4月)にまとめられていて、便利である。国家主義的団体役員の公職追放についても、このようなリストがあれば便利なので、研究者のどなたかにお願いしたいものである。

*1:名簿では「箱田達麿」

*2:名簿では「増永之也」

*3:「こくら」は「广」に「臾」。名簿では「吉田痩」