神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

京都帝国大学総長山川健次郎とヤルート島学術調査ーー坂野徹『〈島〉の科学者』(勁草書房)への補足(その2)ーー


 『山川健次郎日記:印刷原稿第一~第三、第十五』(芙蓉書房出版、平成26年12月)を見ていたら、第一次世界大戦で海軍が占領したヤルート島等の南洋新占領地における学術調査に関する記述があった。

(大正三年)
十一月九日
出。ヤルート島行の事にて中村氏に電報を発す、同伴にて水野学長来室。
松浦氏よりヤルート島行きに関し手紙来る。
(略)
十二月十八日
(略)
法科の助教授山本美越乃氏ヤールトツ[ママ]の事にて来宅。
(略)
(大正四年)
二月十二日
(略)毛戸氏(山本助教授ヤルイト島行の件)、来室。
(略)

 山川は、当時東京帝国大学総長兼京都帝国大学総長。「中村氏」は東京帝国大学理科大学教授の中村清二だろうか。「水野学長」は京都帝国大学理科大学学長の水野敏之丞。「松浦氏」は京都帝国大学医科大学教授の松浦有志太郎だろう*1。「毛戸氏」は、京都帝国大学法科大学学長の毛戸勝元、「山本美越乃」は同大学助教授である。山本の調査は、坂野徹『〈島〉の科学者:パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』(勁草書房、令和元年6月)20・21頁にまとめられた「図表1-1『南洋新占領地視察報告』(正編1916、追録1917)調査概要」(以下「調査概要」という)では、「行程(船名)不明」に分類されている。
 「調査概要」で第1陣(大正3年12月20日横須賀発、4年2月13日帰還(神奈川丸))に分類された京都帝国大学医科大学助手の楢林兵三郎と京都帝国大学文科大学助手の内田寛一も出てくる。

(大正四年)
三月十一日
出。南洋より帰れる医学士楢林兵三郎、文学士内田寛一来室し旅行中の話を為す。(略)

 「調査概要」に記載はないものの、坂野著39頁の注4で報告書を提出していないが視察に参加した学者として挙げる東京帝国大学理科大学教授の山崎直方も登場。

(大正四年)
二月廿四日
出。山崎直方氏来室(ヤルイト島行きの件)。
(略)

 面白いのは、滞在期間が短いことを理由に南洋行きを断った事例が記されていることである。

(大正三年)
十一月廿七日
出。朝七時十分京都駅着。官邸に入り後出勤す。
荒木学長を呼び松下氏の事を話す。
毛戸氏、水野氏来室、松下氏滞在の短き理由にてヤールト行きを断る。今朝松下氏の事につき東京へ送電せしも遂に又送電して之を取消すに至る。
(略)

 「荒木学長」は京都帝国大学医科大学学長の荒木寅三郎なので、「松下氏」は同大学で衛生学講座を担任していた松下禎三教授と思われる。この調査期間の短さには、坂野著にも言及されていて、各離島間を移動するだけで時間がかかるため、実際に現地調査にあてられる時間は少なかった。第1陣の約2ヶ月に及ぶ乗船日数のうち碇泊日数は僅かに18日に過ぎなかったという。山川総長が一旦段取りをしたにもかかわらず、滞在期間の短さを理由に参加を断った例があったとは、非常に興味深い。
参考:「南洋新占領地へ修学旅行に行く山本宣治から三高同級生山田種三郎宛絵葉書ーー坂野徹『〈島〉の科学者』(勁草書房)への補足ーー - 神保町系オタオタ日記

*1:追記:むしろ文部省専門学務局長の松浦鎮次郎と思われる。