「眞山青果旧蔵資料展ーーその人、その仕事ーー」は、国文学研究資料館で平成28年12月~29年1月に開催された。この時のパンフレットに掲載されたコラム「眞山青果の蔵書印について」 *1で、故青田寿美先生が「眞山青果文庫」で確認し得た限り最多の押捺がみられたのは、上下に八卦(乾坤)を、中央に草庵をあしらった「[乾坤一草亭]」印とされている。更にこれは曲亭馬琴の所用印を模したもので、『随筆瀧澤馬琴』の労作ある青果ならではの一顆といえるともされた。
この『随筆瀧澤馬琴』(サイレン社、昭和10年11月)を最近文庫櫂から入手したところ、写真のとおり柳田國男宛献呈用送り状(昭和10年12月付け)に「[乾坤一草亭]」印が押されていた。文中に「舊年の舊作」とあるのは、『中央公論』大正14年3月号、同年8月号、同年12月号に掲載された「曲亭馬琴についての夜話」正・続・続々のことである*2。また、「帝大病院にて」とあるのは、野村喬『評傅眞山青果』(リブロポート、平成6年10月)で青果が昭和5年帝大病院稲田内科に入院し、稲田が東大を退官し聖路加病院長に就任してからは聖路加病院に入院を繰り返したとある記述に訂正を迫るものである。そもそも稲田(龍吉)は昭和9年3月東大を停年退官後に癌研附属康楽病院長(同年5月~17年6月)となっていて、聖路加病院長になった事実はない*3。ただし、『近代文学研究叢書』第64巻(昭和女子大学近代文化研究所、平成3年4月)にも昭和9年秋には聖路加病院に入院とあるので、同病院に入院した時期もあったと思われる。
本書には、柳田による書き込みもあった。「昭和十年十二月十八日読了」だろうか。「読了」は「拝了」(正しくは拝領)かもしれない。この時期柳田は、昭和11年2月25日付け澤田四郎作宛書簡で「近来通信雨の如く毎日一時間以上を手紙に費し、本はよめなくなつたが生活は愉快に候」と書いている。本には読んだような痕跡は確認できず、忙しかった柳田が読んだかどうか。なお、『増補改訂柳田文庫蔵書目録』(成城大学民俗学研究所、平成15年3月)には、青果の本名眞山彬名義の『仙臺方言考』(昭和11年)が載っている。
参考:「眞山青果と柳田國男のながーいお付き合い - 神保町系オタオタ日記」