
先月の平安蚤の市で、南部堂から折口信夫関係史料一括を購入。その中に沼津で大川渉が発行した文芸誌『朋友』第1巻第6号(朋友社、明治41年12月)があった。目次を挙げておく。

「萬葉調狂歌」を投稿した大阪の陽炎少将は、折口の筆名である。これは、研究者でも知っている人は少ないのではないだろうか。『折口信夫全集34』(中央公論社、平成10年8月)所収の大正4年7月21日付け大阪市北区中の島朝日新聞編輯所の大道蜩ノ大将宛絵葉書の発信者名が、本郷の陽炎少将である。宛先の大道は、明治43年に國學院大學部国文科を卒業した折口と同年に師範部国語漢文科を卒業し大阪朝日新聞記者となった大道弘雄である。
この『朋友』と大川については、『東海短歌』600号(東海短歌会、平成15年1月)の関口昌男「沼津の歌人大川渉のことーー沼津短歌会・アララギ・犬蓼ーー」に詳しい。ただ、タイトルに折口信夫が出てこないし、所蔵館もほとんどないので折口の研究者に届いたかどうか。私は日本現代詩歌文学館からコピーを入手した。ありがとうございます。
関口論文によれば、大川は明治19年生まれで明治41年7月國學院大學師範部国語漢文科卒である。卒業後は、沼津町立沼津商業学校教諭、静岡県立静岡商業学校教諭、不二高等女学校教諭等を歴任したという。
関口氏は全集未収録である「萬葉調狂歌」全文のほか、大川家所蔵の明治42年10月12日消印の大川宛折口の葉書も紹介している*1。内容は、子規庵でアララギの会に嘘の名前で出席して、左千夫、茂吉、純、千樫らを見物したこと、9首ばかり歌を詠んだこと、来月一緒に行こうなどということが書かれている。『折口信夫全集36』(中央公論新社、平成13年2月)の年譜によれば、折口は明治42年10月9日初めて子規庵の根岸短歌会に出席し、作歌2首。「ちはら・ごらう」を名告り、伊藤左千夫、古泉千樫、土屋文明、斎藤茂吉らを知ったという。年譜では2首作歌とあるが、実際には9首ばかり詠んでいたことになる。また、葉書には3首例示されているが、全集掲載分とは異同があり、出典の『アララギ』の誤植と思われる。
葉書の差出人は、「牛込区天神町八二川辺方 信夫」となっている。これにより、従来『毎日電報』明治42年10月15日掲載の、劇評懸賞募集に「封印切漫評」を同居する友人永瀬薄暮名義で投稿し一等に当選したという記事に記載された住所(牛込区天神町82番地茅辺方)は、正しくは川辺方だったことも判明した。更に、私が入手した明治42年9月24日消印の大川宛葉書の住所は「牛込区天神町八十二番地河[ママ]辺錦之丞方」である*2。川辺錦之丞は、明治41年10月折口が大道の紹介で考古学会へ入会した時の住所である牛込区袋町6番地川辺錦之丞方と同一人物だろう。折口は大家の引っ越しに伴い、一緒に引っ越していたことになる。
このように折口からの葉書や投稿誌を有する大川旧蔵品が古書市場に出たようだ。まだまだどんな驚くべき史料が残っていることやら。