神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

明治44年赤城山大沼湖畔で河合栄治郎と語る真山青果ーー青田寿美先生の追悼にーー


 国文学研究資料館の『調査研究報告』43号が公開され、昭和5年真山青果日記が読めるようになりました*1昭和3年・4年分の翻刻については、「「[翻刻]青果日記(昭和三年・昭和四年)」(国文学研究資料館)への補足ーー眞山青果とプラトン社・博文館・春陽堂の編輯者指方龍二ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。今回の翻刻を手がけた青木稔弥・内田宗一・高野純子・寺田詩麻各先生、お疲れ様でした。ここに本来であれば、青田寿美先生の名前も入るはずであった。しかし、「後記」にあるように中心メンバーでもあった青田先生は1月5日に逝去された。「後記」を目にして少し泣いてしまった。
 青果について、最近読んだ松井慎一郎編『赤城山日記:河合榮治郎若き日の日記』(桜美林大学北東アジア総合研究所、平成25年3月)から引用しておこう。河合は、第一高等学校を卒業して、東京帝国大学法科大学に入学する直前の時期で、赤城山大沼湖畔の猪谷旅館に滞在中であった。

(明治44年)
7月23日
(略)
 六時少し夕飯。早く終へて石渡兄と共に名刺を携へて真山氏(32)を訪ね、よくもてなしくれて快き一夕を費したり。思ふに違ひ文士といふもの、案外humbleな考えの隠[穏カ]当なものなりと感じ、嬉しく思ひたりき。コーヒー、バナナ、夏蜜柑等を御馳走なりたり。其中に頭に残れる節々を書き留む。
 1)芦花氏(33)は人を貴賤によりて見分く、平等に見ず。氏は考が一変しつゝあるに非ずや。
 2)蘇峰(34)に向ひて弟は聖人なるも兄は俗物なりと云ひしに、氏色をなして怒りて、弟はより多く俗物なり、彼ハman of pleasureなりと云へりと。
 3)文芸や宗教や絵画ハすべて根本に帰る。革命を経たるも独り政治のみは根本の革命なし。howと云ふことのみが研究せられて、whatとwhyとがなし。
 4)隆盛(35)が桐野(36)等に過まられたりと云ふよりも、彼は教へて而て結びたる果に誤れられたりと云はんが適当なるべし。教ふるは教へらるゝなるべし。
 5)社会主義なるものは必ずしも労働者の宗教に非ずして、富めるものに対する反抗の念をやる一種の讃美歌の如きもののみ。
尚、将来会合を催さんなど語らる。
(略)
7月24日
(略)
 真山氏より早稲田文学、文芸倶楽部等借り在り。寝て読む本が出来たりとて喜ぶ。
(略)

 (32)真山青果(1878-1948) (略)
 (33)徳冨蘆花(1868-1927) (略)
 (34)徳富蘇峰(1863-1957) (略)
 (35)西郷隆盛(1827-1877) (略)
 (36)桐野利秋(1838-1877) (略)

[ ]内及び注は、編者による。

 この年は、青果にとって激動の年であった。『近代文学研究叢書』第64巻(昭和女子大学近代文化研究所、平成3年4月)によれば、『太陽』明治43年12月号掲載の「子供」と『新小説』44年1月号掲載の「枷」が同一作という二度目の原稿二重売り事件を引き起こし、重要な発表の場を失っていた。また、この夏に蘆花の媒酌で、横浜の生糸貿易商中島儀三郎の長女で伊藤家養女の京子と結婚している。河合との会話で蘆花が出てくるのは、蘆花が媒酌人だった関係かもしれない。ただし、この時点で青果が結婚していたか、なぜ大沼湖畔にいたのかは不明である。
 明治44年の青果。それほど重要な情報はないが、青田先生なら何か気付く点はあっただろうか。
 

*1:WEKO - 国文学研究資料館学術情報リポジトリ」の「[翻刻]青果日記(昭和五年)ーー眞山青果文庫調査余録(三)ーー」