南陀楼綾繁『古本マニア採集帖』(皓星社)を読んだ人は、私が昭和34年に福島県南会津郡只見町で生まれ、その後静岡県清水市で育ったと覚えているかもしれない。今戸籍を見ていたら、より詳しくは只見町大字石伏字澤の下で生まれていたことが判った。ただ、生まれて数年で清水に移っているので、まったく記憶にない。大人になってから父に何度か「生まれた所に連れて行ってやるよ」と言われたが、興味がなかったので断ってしまった。結局、未だに只見町を再訪したことがない。
冒頭の写真で挙げた『会津日日新聞』明治38年2月10日は、6年前東京古書会館で購入。珍しそう*1なのと出生地縁の新聞なので買ったのだろう。日露戦争中で特に面白い記事は載っていない。
福島県関係では、内山大介・辻本侑生『山口弥生一郎のみた東北:津波研究から危機のフィールド学へ』(文化書房博文社、令和4年2月)も最近読んだ。山口は現福島県大沼郡会津美里町生まれの教員・民俗学者・地理学者である。山口らが昭和10年創立した磐城民俗研究同志会が刊行したという『磐城地方の石に関する民間伝説』が気になる。更に、昭和28年田子倉ダム着工前に会津女子高校郷土研究部の活動として行った「奥会津田子倉生活調査」に関する記述にも注目した。実は、父が只見町に来ていたのは田子倉ダム建設のためであった。そのため、私は、昭和35年のダム完成後清水に移るまでのごく短期間しか豪雪地帯の只見町に住んでいない。雪がまったく降らない清水で育ったので、寒さには弱く冬はコタツネコ状態である。
同書114頁には『東北民俗誌:会津編』(富貴書房、昭和30年5月)からの引用文が載っている。
ダムが完成したとき、それらの工事関係者は再び大波のひくごとく立ち去るであろうが、その頃は又、湖底に沈む墳墓の地に、尽きせぬ名残を惜しみながら、村人もこのなつかしの四周の風景にも別れて、去ってゆくであろう。(略)
まさしく父はこの大波のごとく立ち去った工事関係者の一人であった。いつか私が父の代わりに只見を訪れたいものである。