神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

喫茶進々堂のテーブルを作った黒田辰秋と平瀬貝類博物館ーー併せて梅原真隆と仏教児童博物館ーー


 昨年最も印象的だったのが、龍谷ミュージアムの「博覧ーー近代京都の集め見せる力ーー 初期京都博覧会・西本願寺蒐覧会・仏教児童博物館・平瀬貝類博物館」展であった。最近その時の興奮を再び呼び起こすかのように、平瀬貝類博物館や仏教児童博物館に関する記述に出会った。
 一つは、黒田辰秋の年譜である。黒田は京大前にある喫茶進々堂*1のテーブルセットを制作した木漆工芸作家である。あの長机でお勉強したことがある京大生も多いだろう。現在アサヒビール大山崎山荘美術館で「没後40年黒田辰秋展ーー山本爲三郎コレクションより」を開催中(5月7日まで)である。展示されていた年譜の中に大正10年黒田が画廊三角堂で河井寛次郎の《三彩獅子牡丹文莨筥》に感銘を受けたとあった。この京都初の洋画商三角堂については、「武林無想庵の渡仏を助けた京都初の洋画商三角堂の薄田晴彦 - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがあるので驚いた。更に関連イベント「森見登美彦先生と語る 京都の青春、上加茂民藝協団」で配られた黒田の略年譜(抄)*2大正6年平安神宮近くの平瀬貝類博物館でメキシコ鮑の標本を見て、そのきらめきに魅了されたとあった。この記述は展覧会場の年譜にもあって見落としていたのかもしれない。黒田は後にメキシコ産鮑貝を使った螺鈿装飾を手がけるので、平瀬貝類博物館での出会いがよほど強い衝撃を与えたのであろう。大正2年3月から8年5月までの短期間しか存在しなかった同博物館を伊良子清白が観ていたことは「京都の上野、岡崎にもあった博物館ーー平瀬與一郎の平瀬貝類博物館ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した。黒田も観覧者の一人だったのだ。
 もう一つは、仏教児童博物館に関する記述のある梅原真隆主宰の雑誌『道』(親鸞聖人研究発行所)である。

「雲水抄」『道』101号、昭和8年10月
(九月)
◯廿一日は京にかへつた。夜は児童博物館で宗教研究座談会がひらかれた、大本教の制度について聴いた。

「学苑雑抄」『道』126号、昭和10年11月
(十一月)
十一日、午後二時より東山児童博物館にて宗教制度座談会を催す。大阪の田中東三郎氏が「金光教の制度組織について」話さる。

 仏教児童博物館が、展覧会のほか宗教関係の会合にも使われたことは「龍谷大学龍谷ミュージアムで仏教児童博物館に関する展覧会を開催ーーオタどんのツイートが切っ掛け⁉ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及したが、大本(教)や金光教に関する宗教座談会も開催されていたことがこれで判明した。