神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

柳田國男が貴族院書記官長を辞めた本当の理由?

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 財界人の日記は、作家や学者等の日記に比べて面白くない。渋沢栄一*1小林一三*2の日記でも面白い記述は、極一部である。そのため、『平生釟三郎日記』(甲南学園)は手付かずであった。しかし、人名索引を読んでみたら絶句するような名前が幾つか出てくる。今井ツンドク(今井貫一)、岡田虎二郎、田中守平辻潤西田天香、波多野春房、福来友吉など。もちろん本文を見てどういう文脈で出てくるのか確認する必要があるものの、普通の日記には出てこない人名である。
 今回紹介するのは、同日記3巻(平成23年6月)の柳田國男と推定される「樺田國男」に関する記述である。

(大正八年)
七月九日 (略)
 本日末永一三氏来訪シ、憂国的対話ヲ交換ス。氏ノ言二、本年ノ収穫時二至ル迄在米ガ果シテ需要ヲ満タス否ヤハ甚ダ掛念サルヽトコロニシテ、政府ハラングーン二残留セル米ノ量ガ約百五拾万屯ニ及ベバ必ズ自然ノ成行二任スモ日本二輸入サルヽナラント楽観シツヽアリシニ、英国ハ残留米ノ潤沢ナルニモ拘ラズ解禁ヲ為スノ模様ナキヲ以テ、我外務当局ハ英国政府二向ツテ其一部ノ解禁ヲ求メタルモ承諾ノ色ナク、政府ハ今ヤ策ノ出ヅルトコロナキノ現況ニシテ山本農相独リ懊悩シツヽアルモ、妥協主義ノ原首相ハ楽観論者タル大蔵大臣、中橋文相等ノ楽観説ヲ聞キテ悲観説二耳ヲ傾ケザルガ如ク、末永氏ハ幣原氏二会見シテラングーン米輸入二関シテ其説ヲ聞キタルモ、最早英国二向ツテ外交的手段ヲ以テ之ヲ要求スルノ道ナキモノノ如シト。若シ如此クシテ何等積極的ノ策ヲ用ヒズシテ九月二至ランカ、加之天候ノ不良等収穫二関シテ少シニテモ懸念ヲ抱カシムルノ兆候アランカ、昨年二於ル米騒動ヲ再演セシメザルヲ保セズ。樺田國男氏ノ如キハ、現政府ノ如キ不徹底的ナル政策ヲ以テコノ難局二処セントシテ恬然タル政府二在ルハ潔シトセザルトコロナレバ、桂冠以テ自ラ清クセント語リツヽアリト。(略)

 「樺田」は原文のママである。日記補巻の人名索引はこれを「樺田國男341.→柳田國男」としている。確かにこれは柳田の可能性はある。柳田と末永には面識があった。「大正七年日記」に記載がある。

(大正七年)
十月十四日(月) (略)
△「日華」といふ支那料理にて支那関係のクラブを作る相談、小村俊三郎水野五百木末永の諸君、耳あたらしい議論を多くきく、末永君これから神戸へ行き莫大の金をこしらへてくるといふうまい話なり
(略)
十一月二十二日(金)
(略)
△四時過より華族会館に昨日の寄合のつゞき末永五百木水野の三氏も来る 一同意見よく一致す、
(略)
十二月二十三日(月)
(略)
末永一三君鹿田銀次郎君を伴ひ来る

 岡谷公二貴族院書記官長柳田国男』(筑摩書房、昭和60年7月)によると、日華クラブは大正8年1月7日発会で、会長は近衞文麿、発起人は五百木良三、水野梅暁、白岩龍平、小村俊三郎、小村欣一、末永一三、上西某、柳田の8人であった。また、柳田は明治33年7月から35年2月まで農商務省に勤めていた。これらのことから、「樺田」は「柳田」の誤記である可能性は高い。しかし、同定する決め手はない。日記の編集委員会は何を根拠に柳田としたのだろうか。
 柳田に詳しい人は、貴族院書記官長だった柳田がこの年12月に辞職することを知っているだろう。政府の農政への不満ではなく、貴族院議長の徳川家達との確執であったという。岡谷著以降、倉富勇三郎日記や河井弥八日記を使った研究が進んだところである。平生釟三郎日記に思わぬ記述があるとは、誰か気付いただろうか。