神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

柳田國男のあやすーぃ友人南聡行は、南才三だった。

『倉富勇三郎日記』大正10年4月に柳田國男の知人として、何やら怪しい南聡行なる事業家が登場すると「民俗学とは柳田國男そのものを研究する学問であるーー柳田と大和高取の南聡行とのあやすーぃ関係ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した。一方、『柳田國男全集』別巻1の年譜に南才三という友人が出てくる。

(大正七年)
一〇月三〇日 京都の友人、南才三が来て、仁川の製鉄所の話をしていく。(略)

既に言及したが、『日本金融史資料:昭和編』24巻に大正7、8年頃朝鮮仁川で製鉄事業を経営した南聡行が出てくる。どうも、南聡行=南才三ぽくなってきた。更に、井上通泰南天荘次筆』(弘文荘、昭和11年6月)には、井上が岡山にいた明治30年代のようだが、柳田が岡山からの帰途に京都に立ち寄って「岡崎に住める大和国高取の人南才蔵」に会ったことが書かれている。「才蔵」とあって、「才三」ではないが、大和高取は南聡行の出身地と同じである。また、柳田は大正10年の段階で、聡行とは20年位の付き合いと言っているので、明治30年代半ばからの知り合いになるが、これも概ね合致するようだ。こうなると、南聡行=南才三=南才蔵の可能性が高い。後は、高取の旧藩主植村家壷関係を調べてみるか。なお、アジア歴史資料センターで「南聡行」を検索すると、大正9年3月の「内蒙民業公司」の設立関係など3件ヒットする。内蒙古でも事業を行っていたようだ。
追記:「美濃越前往復」『北国紀行』(実業之日本社、昭和23年11月)によると、明治44年7月22日京都の瓢亭で柳田、内藤湖南、南才三は会食をしている。