神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

女衒村岡伊平治の電気治療師時代ーー村岡の実在を証明した寺見元恵「マニラの初期日本人社会とからゆきさん」に注目すべきーー

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 『近現代日本の民間精神療法:不可視なエネルギーの諸相』(国書刊行会、令和元年9月)の吉永進一「序論」は、明治から昭和戦前期までの民間精神療法を5つに区分している。そのうち、第4期精神療法後期(大正10年~昭和5年)に続くものとして、第5期療術期(昭和5年~昭和20年)を設定している。第5期は、「民間精神療法の中心をしめていた精神療法は急速に勢力を減少し、電気、光線、指圧、整体などの物理的な療法が盛んになる」という。そして、電気療法の例としては杉田平十郎が挙がっている。
 電気療法などの物理的療法が民間精神療法の主流になる直前に電気療法を行う電気治療師となった人物がいる。映画「女衒」にもなった南方で女朗屋を経営した村岡伊平治である。その自伝『村岡伊平治伝』(以下「自伝」という)は南方社から昭和35年12月*1に刊行され、講談社文庫にもなっている*2。しかし、未だに村岡の実在を疑う向きもいるようだ。
 ところが、「『村岡伊平治自伝』の原本を目撃していた石坂洋次郎 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したように寺見元恵「マニラの初期日本人社会とからゆきさん」池端雪浦ほか『世紀転換期における日本・フィリピン関係』東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所,平成元年3月が、日本外交文書、『比律賓年鑑昭和十四年度版』、昭和17年3月の石坂洋次郎日記などから、村岡の実在及び自伝の一定の信頼度を証明している。そのため、平成元年以降村岡に言及した論文・記事で寺見論文に言及していないものは、底が浅いと言ってよいだろう。ただ、残念ながら寺見論文はあまり知られていないようである。もっと、注目されるべきであろう。なお、私も昭和12年1月の畑俊六日記に台湾滞在中の村岡と思われる人物を発見している*3
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 自伝から村岡の名刺を挙げておく。「ラジユーム放射 蒸熱イーデーエムエム電気学士」「兵庫県電療組合熱帯地研究支部長」「日本電療医学士練習院長」「ドクトル」との肩書が付いている。前記『比律賓年鑑』の「在留邦人名選」にもこれらの肩書が出てくる。

村岡伊平治 ドクトル、イーデエムエム電気学士、兵庫県電療組合熱帯地研究支部長、日本電療医学士練習院長、ビコール日本人小学校学務委員、原籍長崎市大浦相生町(略)明治三十一年十月渡航

 また、自伝の年譜によると、昭和3年7月14日病気療養等のため、フィリピンから神戸へ上陸し、中山手の弟の家へ落ち着く。野一式電気治療器を購入し、全快。須磨区戎町に移転し、「ドクトル村岡電気治療院」を開業。昭和4年医師会の実地審査に電気治療の組合を代表して診察し合格。しかし、英国で学んだと虚偽を言ったため、講演を頼まれ、南洋の病気などを紹介したら有名人となり、馬脚を現すことを恐れ、フィリピンに戻り、翌年電気治療院を開業とある。
 更に自伝の原本の巻末には、次のようなものの写しがあるという。
・日本鍼灸専門学院の卒業証書(昭和3年9月10日附、院長米国医学博士前陸軍一等軍医正七位勲六等立尾正衛発行)
・卒業証書(昭和4年9月11日附、日本電療高等学院長発行)
・電療学士認可証(昭和4年12月10日附、桃木電気研究所長桃木政治発行)
・日本電療医学士認可証(昭和4年12月10日発行、東京理学療治研究所、大日本電療専門学院支部、日本電療実習院長発行)
・熱帯地方研究部長としての派遣状(昭和4年12月10日附、神戸市松原通一ノ十五号電療組合長小阪伊作発行)
・その他電療に関する認可証、資格証明書など
 「霊気」と「電気」。字は似てるが、後者は科学的に実在し、計測もできる。そのため、電気療法は信頼できそうと思ってしまう。しかし、村岡のような人物が電療学士(又は電気学士)や電療医学士と称して治療を行っていたとなると、霊術と大した違いはなかったのかもしれない。霊術家の歴史は前掲書で概観できるが、戦前期の電気療法に関する研究はあるだろうか。

*1:宮本常一が自伝を刊行直後に読んでいたことは、「美人好きで悪いか!? - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:自伝の河合譲「あとがき」によると、村岡を最初に発見したのは、フィリピン航路の船長をしていた森勝衛だという。森船長については、「「やればできるじゃないか、ミスター・ヘリング」と林哲夫画伯言いーー『追想森勝衛』を拾うーー - 神保町系オタオタ日記」参照

*3:やはり実在した村岡伊平治 - 神保町系オタオタ日記」参照