学内の権力闘争に破れ教職追放となった京都学派の西谷啓治と鈴木成高

竹田篤司『物語「京都学派」ーー知識人たちの友情と葛藤ーー』(中公文庫)の31「「教職不適格」の烙印」は、昭和21年10月18日付け下村寅太郎高山岩男書簡の引用で始まる。

(略)遂に西谷[啓治]、鈴木[成高]両君迄災が及び、最近の適格審査会で決定致したやうです。(略)(第一回目の審査会では鈴木君のみはパスしたのですが、これを不服の一派の策動で再審査を行ひ、西谷鈴木両方を落としてしまつたのです)。西谷・鈴木両君が不適格の判定を受くべき十分な理由のないことは勿論で、既に御想像のことと思ひますが、夫々一派の醜い私心の横行の結果で、本当に遺憾この上もないことです。Y教授なら格別、○○教授あたり迄西谷君追出しを策することは今迄気づかなかつた処で、この委員会で人間の善悪が実に露骨に分つて来ました。私も今迄全く見損つてゐた人物のゐることをよく自覚した次第です。

[ ]内は竹田氏による補加である。敗戦後大学については大学に設置された適格審査委員会で追放の可否を判断された。審査委員は第三者ではなく、同僚の教員により構成され、竹田氏によると、京大では西谷の属する「哲学」は山内得立、鈴木が属する「西洋史」は原随園が審査委員長だったという。学内の教員による審査なので、「前からあいつが気に入らんかった」とか「戦時中あいつはいい思いをしたが、わしは・・・」とかで、書簡にあるような「一派の策動」とか「醜い一派の私心の横行」はいかにもありそうなことではある。ただ高山がどの程度事情に通じていたか不明で、実際は「私心」ではなく例えばGHQの意向を受けてという可能性もあるだろう。
ところで、何度かブログで利用した書砦・梁山泊から入手した鹿野治助の日記で上記書簡と同時期の箇所を見ると公職追放や教職追放に関する緊迫した状況が書かれていた。

(昭和二十一年)
八月二十七日 (略)
高山君は今朝新聞紙にて追放に該当発令の由
(略)
九月七日 (略)
高山、西谷両氏訪問
(同月)二十六日 佐藤幸治君より来信 西谷君も追放該当者なりといふ。惜しきことなり 小田君を学校に訪ね 会のことを知らす。
(同月)二十九日 午后二時高山君の□
例の四人の外に小田、朝(?)倉二氏顔を加へて会談
(略)
(十月)二十八日 (略)
西谷氏を訪ぬ 失職(?)追放該当の由尚文学部妙(?)な党派のことを聴(?)く 国民学校(?)より大学に至る乞[ママ]皆かくの如し
あきれたるもの也
(昭和二十二年)
二月十六日 (略)
西谷君と百万遍行く。午後片岡君を寺に訪ね 西谷君の審査□□相談す。(略)
二月十七日 午後、高山君訪問。後西谷君を訪ぬ。例のこと色々きく。 翌日 農専に小田氏を訪ねて相談す。
(五月)二十三日 (略)吉田氏より西谷鈴木両氏追放判定書を見せて貰ふ。

誤読も多いと思われるが、御容赦を。鹿野が西谷の教職追放に関して情報収集をしたり、関係者に相談していることが確認できる。特に昭和21年10月28日の条は高山の書簡の内容を裏付けるような記述になっている。
結局、西谷らの教職追放の真相はわからないが、『京都大学文学部の百年』(京都大学大学院文学研究科、平成18年6月)によれば、西谷・鈴木はその著書・講演等の内容を根拠に思想的理由から不適格と判定され、辞職を余儀なくされたという。共に昭和22年7月30日付けで退任している*1
実現するには様々な問題がありそうだが、京都大学大学文書館で高山らの公職追放や西谷らの教職追放について企画展をして欲しいものである。なお、タイトルの「権力闘争」は必ずしも適切な表現ではないが、他に思い付かなかったので御理解いただきたい。

物語「京都学派」 - 知識人たちの友情と葛藤 (中公文庫)

物語「京都学派」 - 知識人たちの友情と葛藤 (中公文庫)

*1:西谷は昭和27年2月に復職。