神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『二十世紀の神話』を訳した独文学者吹田順助

古本夜話114」は、 「ローゼンベルク『二十世紀の神話』と高田里惠子『文学部をめぐる病い』」。

上村清延と共に『二十世紀の神話』(中央公論社)の翻訳をした独文学者吹田順助について書いてみよう。
「『私の稀覯本』(今井田勲著)から」(2006年1月3日)で書いたが、今井田によると、吹田と思われる人物が「『ビスマルクの愛の手紙』(引用者注:正しくは、『ビスマルクの手紙』)で公職追放に指定されるところだった」と言ったという。しかし、吹田自身は『旅人の夜の歌−−自伝−−』で、

(略)『二十世紀の神話』(後に同じ著者の『理念の形成』も訳したが)は、実をいうと、中央公論社の木内高音氏に勧められて、共訳者と共に訳出したものである。(略)
(略)終戦後何年目だったか、文部省に何とかいう委員会が組織され、戦時中の教職員の行動乃至著作活動が調査され、戦時中の国策に積極的な協力をしたという形跡のある者は、追放されるということになった。それで私もその審議会に掛けられたそうであるが、私の場合、『二十世紀の神話』の翻訳が問題になったことは、いうまでもない。処で同委員会の委員長は、私の一高時代の同時代人であり、私が大分以前から関係している武蔵高校の校長、宮本和吉氏であって、私のためになんとか弁明してくれたらしく、そんなわけでパージの厄は免れたわけである。

と書いている。やはり、『ビスマルクの手紙』(主婦之友社)なんかで追放されそうになるわけがないのであった。なお、今井田は「公職追放」と書いているが、吹田の書いているのは「教職追放」のことで、宮本和吉という武蔵高等学校長は中央教職員適格審査委員会の教員代表委員の一人である。もっとも、今井田の記述はあまりにも具体的な描写で、吹田が主婦之友社の『ビスマルクの手紙』と中央公論社の『二十世紀の神話』を混同するわけもないだろうし、よくわからない話である。

吹田は酒豪だったようで、田辺茂一は吹田を新宿ハーモニカ横丁の常連と書いている*1し、本間久雄は吹田の告別式で出会った谷崎精二から吹田が病床に就く10日ほど前まで飲んでいたと聞き、うらやましがっている*2。また、独文学者相良守峯の『茫々わが歳月』には、

翌る(昭和三十二年九月)二日朝、産経ホールの「ペン大会開会式」に出席、満員で堂に溢れる盛況である。それが終わって、ここで一緒になった吹田さん、西脇(順三郎)さん、それに新橋「ますだ屋」のマダム、「ととや」の利加さんのほか、吉田千代子、五十鈴、道(ママ)草、十和田など新宿のマダム連が一緒になって、総勢でますだ屋に繰り込む。この茶屋のマダムは外相重光葵氏の二号となった名姑峯竜であり、英語の会話も達者な教養ある婦人で、今日は計らずもこの家で白昼の饗宴をひらくことになった。マダムたちを帰してから、吹田さん、西脇さんと共に文春クラブに行って総務部長鷲尾氏や編集長池島信平氏とビールを飲み、夕刻から「ととや」*3に寄る。

とある。

なお、『二十世紀の神話』に亜細亜義会に関する記述があることについては、「ニ十世紀の神話と亜細亜義会」(2009年6月27日)参照。

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3月11日郡山のJ堂書店はこんな状態だったのね→「愚智提衡而立治之至也」の7月25日分

*1:「新宿ハーモニカ横丁に蝟集した作家・学者・編集者など」(5月13日

*2:「吹田順助と本間久雄」(2006年6月19日

*3:池島信平が無産知識階級のクラブと呼んだ新宿「ととや」」(4月12日)、「新宿「ととや」の経営者、安田善一」(同月16日)参照