神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

昭和通商ベルリン支店長前田富太郎と岡田式静坐法

京都市吉田本町にあった静坐社の機関誌『静坐』で、まさかこんなところで出会うとはと驚いた社名があった。昭和14年陸軍によって作られた国策会社昭和通商である。昭和通商については、「谷川徹三と昭和通商」などを参照されたい。さて、同誌15巻6号、昭和16年6月の橋本広・小島信子「静坐社のある日」によると、

◯五月二十四日昭和通商の前田富太郎氏が国民の期待に添ふべく決意も固く一路シベリヤ経由で任地へ向はれました。(略)ベルリンに居られる邦人の皆様にも坐つて戴きますと語つて居られましたが氏の活躍によつて枢軸間の経済上の繋りが一段と緊密になる事と存じます。

とある。前田は昭和通商のベルリン支店長で、山本常雄『阿片と大砲』(PMC出版、昭和60年8月)に、

ヨーロッパでは、ベルリン代表部(永井八郎常務担当)のもとに、▽ベルリン支店(支店長=前田富太郎、ナショナルシティ・バンク)▽ローマ支店(同=四宮、仏国通商出身)があった。

とある人物だ。前田がドイツに向かった昭和16年5月は独ソ戦や太平洋戦争の開始目前である。ベルリンに岡田式静坐法の普及に行ったわけはなく、何らかの特命があったのだろう。
なお、山本によると、

戦争に積極的に加担した日本人関係者の大方は、戦犯容疑で捕えられ、全国各地の刑務所に入れられたが、どうしたわけか、昭和通商関係者だけは追及されることもなく、会社が静かに幕を閉じたと同じように、戦後の激動する世の中にあって、皆、それぞれに静かに生きつづけてきた。

とあって、昭和通商は731部隊のようにGHQと裏取引があったのかもしれない。ハノイ支店長の田中軍吉が戦犯として処刑されたことは、「漢口会の田中軍吉」で言及したが、いわゆる「三百人斬り」が理由である。なお、昭和通商の役員は戦犯にはならなかったようだが、「公職追放に関する覚書該当者名簿」には挙がっていた。堀三也は「昭和通商専務社長」、田中勘次、永井八郎、宮田準一は「昭和通商常務」が該当事由である。