神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

ナチスの退廃美術展を見たドイツ文学者谷友幸が旧制広島高校時代に通った音楽喫茶ムシカとは

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旧制広島高等学校卒のドイツ文学者というと富士川英郎がいるが、京大文学部教授だった谷友幸も忘れてはいけない(追記:谷は、昭和6年第六高等学校理科乙類卒業でした)。書砦・梁山泊で入手した『谷友幸先生追想録』(谷友幸先生追想録刊行会、昭和63年9月)の年譜によると、

明治44年5月 谷政太郎の長男として、東京市本郷区で出生
昭和12年4月 京都帝国大学文学部ドイツ語学ドイツ文学科卒業
同年4月 京都帝国大学大学院入学
同年11月 フムボルト奨学金を受け、フリードリッヒ・ヴイルヘルム大学(ベルリン大学)哲学科へ入学
昭和14年5月 京都帝国大学大学院再入学
昭和17年1月 上田良子と結婚
同年3月 広島高等学校教授
昭和19年4月 広島高等学校を退職、独逸文化研究所研究員*1京都帝国大学文学部副手
昭和21年4月 東方文化研究所嘱託

京都帝国大学一覧』の昭和14年度版に谷の名前はないが、15年度版によると「近世独逸文学」を研究していた。同時期の文学部大学院には錚々たるメンバーがいて、大浦幸男*2、河北倫明、竹田聴洲、辰馬悦蔵、角田文衛、林屋辰三郎といった名前がある。昭和50年3月に京都大学を定年退官し、大谷大学文学部教授となり、56年7月に逝去。
さて、『谷友幸先生追想録』掲載の広島高等学校における生徒の回想が面白い。田中貢は谷がナチス政権下のドイツ留学中に見た「退廃美術展」の話に言及している。

ナチス党首ヒットラーにはお気に召さぬ、二十世紀初頭の自由主義時代の芸術品ばかりが展示され、会場にはゲシュタポの面々が武装して警備、監視に当り、参観者は無言且つ無表情を強制されたが、会場には入場者引きも切らずだったそうである。当時の日本ではこう云った美術展さえなく、新聞にも一切記載されなかった事柄を、谷先生が授業の合間合間に話して下さった事を記憶している。

昭和12年7月からミュンヘンで開催された「退廃美術展」については、平成7年神奈川県立近代美術館で「芸術の危機ーーヒトラーと《退廃美術》展」が開催され、私も見に行った。写真を挙げた図録によれば、「退廃美術展」は昭和13年2月から5月までベルリンへ巡回しているので、谷はそこで見たのだろう。戦前「退廃美術展」について授業で語った先生がいたとは、驚きますね。
ドイツ帰りの谷は赤いネクタイで赴任、授業も時に脱線してエッチな話もした自由主義者だったらしい。多くの生徒が語っているのは、当時広島にあった音楽喫茶ムシカで見かけた谷の思い出である。たとえば、六田猶裕の回想。

広島での思い出では、クラシックの音楽喫茶「ムシカ」である。黒いベルベットを羽織った女主人のうぶな横顔とともに、新婚ほやほやの少女のような御夫人を伴った、和服姿の先生の面影が今も蘇って来る。

胡町にあったムシカ、「当時、大阪以西では最大のクラシックレコード〈SP〉のコレクションを誇っていた」との回想もある。ググってみると、昭和21年開店で今年3月に閉店した同名の店がヒットするが、戦前のムシカとの関係が不明である。小林哲郎の回想には「戦後『ムシカ』なる喫茶店をたずねたが想い出をぶち壊すばかり。『ムシカ』のマダムはまだ広島のどこかで元気にしていられるそうな」とあって無関係なのかもしれない。偶然なのか、意識して踏襲したのか気になるところである。
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*1:竹本孝「谷友幸先生聞き書き抄」によると、谷良子夫人の手紙に「成瀬先生[成瀬清ーー引用者注]のお陰でドイツ文化研究所へお勤めすることになり、ドイツ人のエッカルトさん・エーヴァスマイヤーさんとご一緒にお仕事を致しました」とあるという。

*2:詩誌『骨』同人大浦幸男先生の父大浦八郎 - 神保町系オタオタ日記」参照