神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

藤澤清造『根津権現裏』をめぐるテキスト・ヴァリアント

藤澤清造根津権現裏』(新潮文庫平成23年7月)の西村賢太氏による解説に気になる箇所があった。『根津権現裏』は日本図書出版*1から大正11年4月に刊行されたが、無削除本と検閲により2頁分が削除され、その旨が印刷明記した紙片が貼られた削除本があるという。更に、

そして無削除本の初手の寄贈本の中には、清造自身が赤ペン、乃至鉛筆を用い、伏せ字部分を起こしたものが数種現存している。で、これを合わせると都合三種と云うことになるのだが、更にはどう云うわけか、伏せ字箇所が本によって違っていたり、また伏せ字を示す““×ד“の数が異なっているものも数種確認済みである(略)。

という。これは、面白そうだということで、調べてみた。
まず、削除本だが国会図書館デジタルコレクションで見られる。たしかに101頁・102頁に当たる所は白紙に「此処二頁(第百一頁/第百二頁)削除」と書かれた紙片が貼られているようだ。奥付は大正11年4月1日印刷、大正11年4月5日発行。これは無削除本の発行日と思われるが、本来は削除本を内務省に納本した時に訂正すべきものだが訂正されていない。また、「大正/11.4/内交」のスタンプが押されているので、内務省から帝国図書館に副本が大正11年4月中に交付されたことがわかる。
無削除本は京都府立図書館が所蔵している。101頁・102頁は切り取られていない。ただし、伏字が6文字分ある。新潮文庫版90頁で「強姦のされ通しさ」と太字にされている部分で、注に「原文伏せ字」とある。府立図書館所蔵本と西村氏が校訂に使用した本とで伏字の文字数が異なるようだ。この他、府立図書館所蔵本(国会図書館所蔵本も)と新潮文庫版では、前者の98頁と後者の88頁に当たる部分で前者の伏字が後者では伏字になっていない箇所がある。牧義之『伏字の文化史ーー検閲・文学・出版ーー』(森話社平成26年12月)の「第八章誌面削除が生んだテキスト・ヴァリアントーー石川達三「生きてゐる兵隊」からーー」は、「生きてゐる兵隊」が掲載され、発売頒布禁止処分を受けた『中央公論昭和13年3月号の異版を詳細に比較、流通の実態などを考察したものだが、石川の原稿の到着が印刷間際になり、発行日に間に合わせるため印刷途中で機械を止めては問題箇所の鉛版を削る作業を複数回行った結果異なる本文を持つ号が少なくとも4種類存在するという。『根津権現裏』の場合は、どういう経緯でヴァリアントが発生したのだろうか。
もう一つ面白い事実がある。府立図書館所蔵本には大正11年5月5日に購入されたことを示すスタンプが押されている。無削除本を大正11年5月の段階でも購入できたというのは、警察による押収を免れた本だったのだろうか。それにしても、当時の府立図書館は無削除本を閲覧させちゃったのか気になるところである。本書について、西村氏の解説は三上於莵吉の口利きで上梓の運びになり、発行直後に出版社は破産解散、清算事務の関係から清造が約70部の見本を貰い、その殆どを知友に配ったことは書いているが、検閲の経緯については書いていない。本書は『禁止単行本目録』やその他の発禁本目録に記載はないので発売頒布禁止処分はなく、削除処分だったと思われるが、異版の存在や削除処分に至る経緯などの研究が待たれるところである。

根津権現裏 (新潮文庫)

根津権現裏 (新潮文庫)

伏字の文化史―検閲・文学・出版

伏字の文化史―検閲・文学・出版

*1:新潮文庫の「年譜」には、「日本図書出版株式会社(小西書店の別会社)」とある。