猫も杓子も岡本太郎という感じになってきたが、わしも岡本太郎ネタでいこう。
岡本は、昭和5年から15年にかけてフランスに滞在したが、外国人の画家や作家などとの交流については、回想を書いているが、日本人との交流については、ほとんど書いていない。そのため、丸山熊雄の『一九三〇年代のパリと私』の次の記述は、貴重だろう。
こうして一と夏、川添と一緒に過ごすんですけど、そこへパリから何人かの友人が来ましてね。岡本太郎も来てますね。(略)僕が行った時にはもう数年前から居たわけですね。僕達みんなで「タロー」「タロー」って呼び捨てにする。岡本君は普通の絵だと下手なんですね。色彩感覚も決してよくない。モンパルナスにアトリエを借りてましてね、今度はこういう絵を描いたから見に来ないか、なんて言うんで僕達ぞろぞろ行ったんですね。坂倉なんかが、あとになって大きな建築するようになってから、タローにモザイクなんてさせてますけど、このころは全然問題にしないで、頭ごなしにやっつけるわけですね、絵を見ては。それで僕たちもタロー、タローって呼捨てでね。ですけど器用な男でね、面白い奴でね。彼もカンヌに尋ねて来ました。そして煽てるとね、あの中華料理って、ラーメンみたいなもの作るんですよ。(略)そうそう、その頃、僕もパリで読んだんだけど、ロートレアモンの『シャン・ド・マルドロール』ですか、あれは散文詩ですけど、彼はあれをしょっちゅう、持って歩いていたような気がします。
上記は、昭和10年のこととされている。「川添」は川添浩史(本名・紫郎)*1、「坂倉」は坂倉準三である。また、同書の口絵写真として、同年夏、マントンで撮った写真が載っているが、キャプションによると、丸山、井上清一、ベルナール・ヴァレリー、岡本が写っている。
岡本とスメラ学塾の小島威彦は、パリで会った可能性が一応あるのだが、小島の詳細な自伝『百年目にあけた玉手箱』には、岡本の名は出てこないし、丸山の前掲書に載っている昭和13年の小島の帰国送別会の写真*2には、城戸又一夫妻、鈴木啓介、小島淑子(小島夫人)、西村久二(西村伊作の長男)、原智恵子(のちに川添と結婚)、西村ユリ(西村伊作の次女。のちに坂倉と結婚)、小島亢(小島の長男)*3、丸山、諏訪根自子、坂倉、山崎明子、伊庭マルセルが写っているが、岡本の名はない。小島と岡本は、出会っていないと見るべきか。2007年7月5日に、小島と岡本が会っていることを前提とした記述をしたが、訂正しておこう。
岡本は、昭和15年6月、パリ陥落後、最後の引揚船白山丸でマルセイユを出港、8月に帰国。同じ船には、荻須高徳や猪熊弦一郎も乗船していたほか、シャルロット・ペリアンも乗船していた*4。岡本とペリアンには共通の知人として坂倉がいたのだが、おそらく、気付くことはなく、交流はなかっただろう。
*1:川添、井上清一とロバート・キャパの交流については、2006年4月19日参照。
*2:丸山によると、撮影は小島の義兄深尾重光。小島は酔いつぶれて写っておらず、川添、井上は所用のため、欠席。