『木佐木日記第1巻』によると、
大正12年7月9日 樗陰氏は春房という男に会ったことがあるそうで、なんでも、高嶋米峰氏の紹介で、秋子が入社したとき(秋子は当時数え年二十五歳)、春房氏は秋子を連れて樗陰氏に挨拶に来たが、そのとき「どうぞ秋子を可愛がってやって頂戴」と言ったそうだ。樗陰氏は秋子を可愛がってやって頂戴とはなんだ、とそのときの春房氏の口真似をして笑ったが、樗陰氏は「春房という男はちょっと凄い感じのする美男子だったが、キザな奴だった」と言っていた。樗陰氏の話では、吉野(作造)さんも春房を知っているが、とかくの噂のある男だと、よく言っていなかったと。
吉野作造選集には人名索引がないので困るが、吉野は特に春房については言及していないようだ。吉野が春房を知っていたのは、『中央公論』の主要な執筆者だった関係だけなのか、それ以外にあったのか、知りたいものである。
なお、昭和14年6月29日の朝日新聞によると、春房は大日本火保協会の書記長を辞任している。
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五反田の方からシャカシャカ音がするような。
大丸東京で「ムーミン展」ももうすぐ終わり。
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ウィキペディアの「波多野秋子」に「子爵・波多野春房」と出てくるのは、どういう間違いだろう。