波多野養作、波多野烏峰、波多野春房については、ma-tango氏*1、小谷野敦氏*2、私*3の三者で一時期盛り上がったことがある。若干の疑問は残るが、結局、波多野養作≠波多野烏峰=波多野春房ということになったと思う。
その波多野養作だが、明治37年末〜40年春に東亜同文書院の代理院長兼学生監督を務めた宗方小太郎の日記*4に出てきた。
明治38年4月9日 本日書院第二期卒業式が行われた。朝行って準備に取りかかった。
10月24日 甘粛蘭州の波多野養作から手紙が寄せられた。
40年9月15日 林出賢二[ママ]郎が来訪。午後、林出を豊陽館に訪ねる。彼は伊犂に二年余りいたが、今後又そちらへ行く。
42年2月21日 波多野が来訪。
林出賢次郎と波多野は、東亜同文書院第二期生。二人は、明治38年卒業と同時に、草政吉、三浦稔、肥田(桜井)好孝と共に中国の西域調査を外務省から委嘱された。波多野は、同年7月から2年間の調査旅行後、北京の日本公使館に勤務したという(藤田佳久『東亜同文書院中国大調査旅行の研究』(大明堂、2000年3月))。
波多野春房の方は、川西政明『新・日本文壇史第二巻』に期待していたが、特に新知見は書かれていなかった。
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