三浦謹之助は大正天皇の診察を行った医師として著名のようだ。その三浦が村井弦斎と親しかった。『三浦謹之助先生』(三浦謹之助先生生誕百周年記念会準備委員会、昭和39年3月)所収の三浦と緒方富雄の対談によると、
三浦 えゝ、語学ができれば予科に入学できたのです。その頃やはり外国語学校に寄宿舎がありましてね。そこでロシヤ語の人だの、支那語の人だのとつき合つて面白かつたのですね。私が外国語学校の寄宿舎で一緒になつて後まで友達だつたのは、当時ロシヤ語をやつていて後に「食道楽」という本を書いた村井弦斉[ママ]という人です。あの男のこしらえた茶碗なんかまで私の処にあります。震災の前まで私の処へよく来ました。うまいものを食べるのが自慢でしたね。
という。初出は『懐古』(冬至書林、昭和19年)で、柳沢健企画、近衛夫人が速記者だったという。
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新人物文庫からポーラ文化研究所『幕末・明治美人帖』刊行。『明治のお嬢様』の世界だす。
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わしも「キテレツ大百科」は知らない。
内澤旬子さんの『小説すばる』の連載は6月号休載。しかし、『青春と読書』6月号にて、多田富雄「春楡の木陰で」その2が、イラストレーション内澤旬子なることを発見。いつまにか、担当していたようだ。
波多野春房(烏峰)は、戦後も長野県境村(現、富士見町)で生存していたことが判明。
猫猫先生が先に言及しているが、学燈社の『國文學』休刊。6月号に8月号用の投稿原稿募集要項がないので変だなあと思っておったが。