神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

手塚治虫の父と梅崎春生の息子


手塚治虫の父親と手塚ファンと交流があったことについては、二階堂黎人『稀覯人の不思議』にも出ている。梅崎春生の「聴診器」『新潮』昭和37年4月*1によると、梅崎の息子も、手塚邸を訪問した際に手塚の父と会ったようだ。

息子は学校でクラス新聞を編集している。そのクラスから、新聞が二つ出ている。初めはひとつだったのに、分裂して二つになったのだ。(略)
かくてはならじと発憤して(私がではない。息子たちがだ)新企画をもって対抗しようということに、編集方針が定まった。その手始めに、学校近くに住む有名な人の訪問記事を取ろうじゃないかと、相談−決して、最初に漫画家の手塚治虫氏の家に押しかけて行ったらしい。菓子を御馳走になったり、漫画の原画をもらったりして、息子は嬉々としてうちへ戻って来た。
「すごい家だよ。手塚先生の家は。地下室があるんだよ。」
息子は眼をかがやかせて報告した。
「庭が広くて、ずっと芝生になっていて、池があるんだ。そして、僕たちがいる時、先生のお父さんが庭に出て−−」
池の金魚に餌をやったり、のんきに芝生に寝ころんで週刊誌を読んだりしていたのだそうだ。


当時、梅崎も手塚も練馬区に住んでいた。

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定額給付金の使い道。
誰ぞ・・・金沢文圃閣への支払
わす・・・王将でたらふく食べる。しかし、何日分もあるね。

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大正10年が飛んでいた。

1月「川浪の音」→「川波の音」
4月<解り切つた事> 人間
5月<短歌5首> 文章倶楽部、<脚本「新樹」に添えて>→<脚本「新樹」に就いて>(のち<脚本「新樹」に添へて>)
7月<長田秀雄氏の「飢渇」に> 新演藝
10月<修養〜>→<修身〜>(<のち<修養〜>)、<一人一言>中央文学

*1:梅崎春生全集第七巻』所収