馬場孤蝶の日記に中山啓、本名中山忠直の名前が出ているようだ。
紅野敏郎「『馬場孤蝶日記(新資料)の意義』(『文学』1982年1月号)によると、大正9年5月29日の条に
五月二十九日 土曜 晴
安藤来る。レエニンの論文の筆記を頼む。午後その続きを訳し、午後三時頃完結。五十里幸太郎来る。毎日新聞記者中山啓来る。夕方堺*1より使者来る。
中山は大正9年に毎日新聞社に入社したことはわかっていたが、遅くとも5月には入社していたことが確認できた。
大正9年 病院を出た士郎は、売文社で知り合った山口孤剣の世話で「毎夕新聞」へ入社。「落穂集」というコラムを担当したが、居ずらいわけが生じて、今度は堺、山口の推薦で、「東京毎日新聞」の言論班へはいった。編集長は水谷竹紫、、政治部長が横関愛造(後の改造編集長)そして次長格に秋田忠義、同僚には中山啓、加藤勘十などがいた。が、ここも三、四ヵ月で退社。
また、尾崎の『小説四十六年』(講談社、昭和39年5月)によると、
そのころ、私が作家として交遊していたのは前田河広一郎である。私はそのとき、二十四歳であり、彼はすでに四十に近い年配だったが、私が、はじめて彼を知ったのは雑誌「中外」の創刊されたときで、私が山本実彦の知遇を得て茨城の鉱泉宿や福島県下を放浪して歩いているころ、前田河は中外の編集長であり、社員として彼の下に、中山啓(忠直)や、松本惇[ママ]三なぞがいた。(略)
社長の内藤民治が、また一風変わった、なかなか幅のひろい人物で、堺枯川や大杉栄と親交があり、売文社の上得意であったということも私が親しくなった理由であるが、(後略)
尾崎は、明治31年2月生まれ。『中外』の発行は、大正6年10月〜同8年4月。同10年6月(復刊)〜同年8月。創刊時の編集長は、中目尚義。編集部には、安成貞雄がいた。前田河の中外社入社は大正9年夏、編集長になったのかは確認できてない*3。
時期は明確ではないが、中山は毎日新聞社から、中外社へ移ったようだ。
追記:『未来』6月号に雑賀恵子さんによる内澤旬子『世界屠畜紀行』の書評あり。
緻密で丁寧なイラストと、柔らかな文章は、あらかじめの価値判断を排して、世界を凝視め、知ろうとする好奇と驚きと、そして優しさに支えられており、わたしたちは、内澤さんとともに本の中で屠畜の現場を目を瞠りつつ旅して、内澤さんとともに、うろうろと迷うのだ。
とある。
追記:観世栄夫さん(谷崎恵美子さんの夫)が亡くなられた。