神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

堺利彦と『平民日本史』の編集

堺利彦の売文社は、大正2年3月四谷区四谷左門町から四谷須賀町へ移転、翌4月京橋区南佐柄木町へ移転。これに関する黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社)の記述は混乱している。『パンとペン』の
・278頁では大正2年4月に四谷区四谷須賀町から京橋区南佐柄町三番地に移転、
・346頁では大正2年3月四谷左門町から四谷南伊賀町に移転、
・398頁には「この住所(四谷区南伊賀町六十番地 平民日本史編集所)に移転した一九一三年ごろ、堺が『平民日本史』を執筆するつもりだったのは間違いない」、
・巻末の年譜では大正2年3月「事務所を四谷須賀町に移す。『平民日本史』編集を計画して同所に編集事務所を設けるが、短期間で廃止」とある。

売文社の四谷須賀町への移転と四谷南伊賀町の編集事務所については、従来の年譜では、

大正2年 四谷須賀町に移り、次で京橋南佐柄町に転ず。

大正8年 冬、平民日本史編輯の意あり、四谷(南)伊賀町に編輯事務所を設けしが、幾何もなくして廃す。

とある。黒岩さんは、従来の年譜の大正2年と8年の記載を混同しているように思えるがどうだろうか。『パンとペン』の年譜は、黒岩さんと小正路淑泰氏との共同作成となっているが、小正路氏の意見を聞きたいものである。なお、従来の年譜の記載も正確ではないようである。大正10年2月に堺の媒酌で山崎今朝弥の義妹山形俊子と結婚した宮地嘉六の「新婚日記」(大正十年)*1によると、

四月七日 堺さんから晩餐によばれたので妻と四時頃から出かける。(略)
家には奥さんと真柄さんがゐられた。茶の間でしばらく話をしてゐる間に堺さんは帰られる。日本平民史(ママ)を編纂する為めに四谷の方に家を一軒別に借りたのでそこへ毎日出かけるとのことである。(略)
「藤森成吉君にも来て貰ふやうに通知したが旅行で留守ださうですの。」と奥さんは云はれる。間もなく瑞西から帰られた守田有秋氏が来る。久しぶりの挨拶をする。二六新聞時代を思ひ出す。やがて植松君が来る。

大正10年4月の段階でも、編集事務所は存在していたようだ。なお、『平民日本史』編集の時期が多少繰り下がっても、堺と松本清張の関係に関する黒岩さんの推測には影響ない。

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「検閲にて自主規制なり」と、わしも書いてみるか。

*1:『中央文学』5年6号、大正10年6月。『宮地嘉六著作集第六巻』。