昭和5年12月7日付けの東京日日新聞朝刊には、おどろおどろしい見出しが躍る。
「謎の人物跳躍する怪奇な天津教庁」「面妖な神代文字と古器 明道会事件から飛火・警視庁活動」。
本文に眼をやると、
「市外松沢村赤堤五三六皇国神代文字仮研究所、大日本藩札研究会長前田惇氏は五日午前十時警視庁に召喚され官房高等課で加藤警部から約八時間取調べを受け同夜六時帰宅した(後略)」とある。「藩札狂」前田惇はいつのまにか、竹内文献の熱心な信奉者になっていたのである。
竹内義宮『デハ話ソウ』中の「主なる神宮拝観者と参拝者」を見ると、「昭和4年6月〜10月」の項に岩田大中や酒井勝軍らとともに、前田の名前(「前田淳」)が見える。
前田は、上記の第1次天津教事件と呼ばれる事件で受けた取調べによって、肉体的精神的にダメージを受けたのか、その後間もなく亡くなったようである。
高畠康明『神字起源解』(昭和6年10月)に拠れば、
新進前途ある神代文字研究家たる前田惇氏は突如世を去る。(中略)昭和四年十月十一日、同志の酒井勝軍氏外四五名の士と合依り、茨城県竹内家(太古宝典文献所蔵家)に出入し宝物拝見するに及び(中略)。
以下前田氏生前に遺したる冊子『世界の学界に声明書を発表』の前文を掲げて以て本書発刊の意義に資せんとす。
(中略)
日本に十数回来朝しお札博士として有名なる米国シカゴ大学教授フレデリック、スタール博士とは十数年来の親交がある、博士は日本古代の歴史及郷土資料、神社仏閣等のお札を多数集めて帰国し目下盛に研究中である。
スタール博士は、この前田の他に、もう一人、竹内文献の信奉者とのネットワークも有していた。
(続く)