明治44年1月24日
教員室で永井荷風さんに阿部から頼まれた「ふらんす物語」の事を聞く。
同月30日
今日「ふらんす物語」の「巴里のわかれ」「黄昏の地中海」と「三田文学」所載、国枝史郎(原注:1886−1943。『神州纐纈城』の作者も、この年(明治44年)にはまだ早稲田大学に在学中だった。)の「我等の若き日の為めに」を読んだ。国枝と云う人は将来のある人だと思う。この作も月並みな所がないでもないが、豊富な空想と青年の熱情を持っている所が今の文壇には珍しい。
明治45年6月17日
鴎外博士は作物で見ると極めて気むずかしい皮肉ばかり云ってる人らしく思われる。会って見ると丸きり違う。善く談じ善く笑う人だ。話も甘い。イヤ味のない人だ。気に入った。
大正3年2月1日
木下立安氏から手紙。小生の経営する「楽天パック」を毎月送る。留学生仲間に珍談でもあったら知らしてくれと書いてある。何でもやる人だ。
極め付きは次の1日
明治44年6月29日
連中はまたプランタンに行って、ここでは押川春浪や正宗白鳥がいて、それに井川がからんで面白かったそうだ。
ヨコジュンさんが「明治時代に生まれたかった」という気持ちもわからないでもない(ちなみに、明治44年6月29日というのは、いわ
ゆる「野球害毒論論争の始まるちょうど2ヶ月前)。