神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

三高教授中村直勝から大津市の関蝉丸神社元社掌の三上左也宛年賀状


 今月の平安蚤の市では、中村直勝の大正15年の年賀状を購入。娘2人の写真が載っているだけで、直勝そのものを研究しているわけではないが、200円なので買ってみた。直勝は当時第三高等学校教授兼京都帝国大学文学部講師で、翌年同学部助教授に昇任している。
 宛先の大津市清水町の三上左也は、次世代デジタルライブラリーで検索すると、『大津宮奠都臨時祭典大津市制施行十周年祝典記念』(大津市明治41年11月)で、大津市の関清水蝉丸神社*1々掌だったとわかる。直勝の父で長等神社々司の中村勝明や直勝の名前も出ている。左也はその後京大近くの吉田神社に移ったことが『内務省庁府県職員録:大正15年4月1日現在』(帝国地方行政学会、大正15年6月)でわかる。また、左也には三上左明との共著『大庭御厨の研究』(三上左也、昭和6年10月)があるようだ。左明(明治32年-昭和6年)は、『神道人名辞典』(神社新報社、昭和61年7月)に、関蝉丸神社社家出身で、大正13年東京帝国大学史学科卒業後、内務省神社局考証課に勤務し、昭和6年9月神宮皇学館教授に任じられた日に死去とある。左也は左明の父だろうか。
 直勝は、『第14版大衆人事録』(帝国秘密探偵社、昭和18年9月)*2によれば、妻はつ(明治27年生)、長女千鳥(大正10年生)、次女乙鳥(大正13年*3)の家族がいる。3人とも府立高女卒である。娘2人は相当の人物と結婚したと思われるが、不詳。
 明治23年生まれで昭和51年に亡くなった直勝は極端な亭主関白だったようで、臼井史朗『弟子三尺:ある出版人の日記から』(淡交社、平成元年7月)に次のような一節があった。

 昭和五十三年二月三日
 中村博士は、日常、五つの財布を身につけて、全財産をもって歩いていたという。おそるべき事実を、中村千鳥さん(中村博士の令嬢)からきく。すべての家計は、最後まで博士がにぎっていた。台所経費の手控え帳を見せられ、まったくの驚きだった。うどん一杯、ネギ一束も記帳されている。あれでは、千鳥さんも、はやく亡くなった奥さんも、冷蔵庫の中のような冷たさでのくらしだったにちがいない。
 一方で・・・・・

参考:「白川書院の臼井喜之介宛中村直勝の『中村直勝日本史』に関する書簡 - 神保町系オタオタ日記」 
 

*1:関蝉丸神社下社

*2:直勝の趣味として、旅行、小説、民藝蒐集が挙がっている。民藝蒐集については、拙ブログ「金関丈夫、中村直勝、湯浅八郎らが創設した京都民芸同好会の民芸品展覧会 - 神保町系オタオタ日記」参照

*3:大正15年の年賀状に「四つ」とあるのとは合わない。

柳田國男「炉辺叢書刊行趣旨」掲載の『郷土研究社図書目録』


 数ヶ月前に平安蚤の市で、田中緑紅日記と同じ出所の物という図書目録を購入。てっきり田中が主宰した郷土趣味社の図書目録と思っていた。しかし、よく見たら岡村千秋が創立した郷土研究社の図書目録(以下『図書目録』という)であった。
 本書は、柳田國男「炉辺叢書刊行趣旨」(以下「刊行趣旨」という。大正13年11月付け)と炉辺叢書20冊の解題などを収録したものである。「刊行趣旨」は、『柳田國男全集第22巻』(筑摩書房、平成22年9月)に収録された『炉辺叢書解題』(以下『解題』という)の「刊行趣旨」と同内容である。全集の解題(佐藤健二氏)によれば、刊記のない『解題』は2種類あって、大正13年11月付けの「刊行趣旨」と炉辺叢書16冊の解題などが載る物と、大正14年7月付けの「刊行趣旨」と炉辺叢書20冊の解題などが載る物である。更に、佐藤氏によれば、この両者の存在は水木直箭や谷沢永一が指摘しているが、『図書目録』の存在や特質は論じられていなかったという。そして、佐藤氏は2冊の『解題』について大正13年11月から大正14年1月までの間と大正14年7月から8月までの間に刊行、『図書目録』について昭和3年6月以降の刊行と推定している。
 国会図書館サーチで『図書目録』はヒットしないし、「日本の古本屋」の販売記録にも見当たらないので、確かに柳田の研究者にも知られていなかった貴重な冊子のようだ。

 

寸葉会で発見されたスター食堂の社内報?『スター食堂ニュース』57号(昭和14年10月)


 先日の寸葉会で購入した残る1点は、『スター食堂ニュース』(スター食堂研究部、昭和14年10月)である。国会図書館サーチではヒットしない。毎月1回発行とすると、昭和10年2月創刊ということになる。   
 斎藤光先生(@hikaru_sth)のツイート(平成31年3月3日)では、本紙について「社内向けと思われる」としている。定価が書かれていないので、おそらくそのとおりかと思われる。ただ、社員募集の案内も載っているので、食堂の利用客等にも配ったのかもしれない。紙面の内容は、西村寅太郎社長による国策栄養料理のレシピ、金谷稼堂「健康と栄養について」、スター食堂便り、真渓涙骨『一関また一関』から「修養寸言」の転載、子どもの2作品が載る綴方教室、田中雨城選のスター俳壇などである。
 社長の西村は、『第14版大衆人事録』(帝国秘密探偵社、昭和18年9月)によれば、明治12年兵庫県生まれ。36年渡米、大正11年帰朝後、15年スター食堂を創業である。ただし、同社のホームページ「スター食堂の歴史 | スター食堂株式会社」では大正14年創業である。俳句の選者田中は、『俳句三代集巻9』(改造社昭和15年2月)によれば、本名稔。前橋市生まれで、京都市伏見区深草に在住の公吏。伊東月草民(ママ。正しくは伊東月草か)の門にして『草上』の同人とある。

 社員の奥村慶造の訃報も載っているので、挙げておこう。昭和4年入社で、営業部主任のほか、スター青年学校主事、本紙編集人を務めたが、享年33で亡くなっている。若い社員の教育機関と思われるスター青年学校が存在したことが分かる。

 中京区寺町錦上ルの本店のほか、グループ店が載る一覧も挙げておこう。京極錦天神前のスターバーがクイックランチに改められていたことが分かり、驚きますね。スター食堂の設計を行った上野伊三郎や内装を行った夫人の上野リチについては、京都国立近代美術館で平成21年に「上野伊三郎+リチコレクション展」が、令和3年に「上野リチ展」が開催された。前者の図録の笠原一人「建築家上野伊三郎ーーその活動の足跡ーー」によると、本店とスターバーは昭和5年、出町分(支)店は6年、祇園スターソーダファウンテンと京極支店は7年の設計である。

在野の怪物藪田嘉一郎と京都帝国大学教授の西田直二郎


 9月9日京都新聞に没後30年を迎える松本清張の「先生」だった藪田嘉一郎に関する記事。有料配信の「THE KYOTO」の記事「松本清張が仰いだ京都の“怪物”(全5回)」(樺山聡記者。令和2年9月1日公開)の一部をあらためて紹介している*1。「藪田嘉一郎の古書店文林堂書店が参加した書好会の『書好』ーー『書物関係リトルマガジン集ーー中京・京阪神古本屋編ーー』(金沢文圃閣)で復刻ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した「ウは「京都」のウ」ファイル19「松本清張の「先生」」(『京都新聞』令和元年11月26・27日、12月3・4日朝刊)を再構成したもののようだ。
 これで、ネットで読める入山洋子「〈資料紹介〉西田直二郎日記(3)」『京都大学大学文書館研究紀要』20号に藪田が出ていたことを思い出した。

(昭和四年)
五月十四日 火曜
研究室に行く。浜本浩氏[改造社京都支局長]来る。(略)藪田[嘉一郎]氏、文林堂を初めるとて来る。

[ ]内は翻刻者による注記

 薮田と西田の関係については、前記『京都新聞』の連載第3回(令和元年12月3日朝刊)に、大正14年内藤湖南、西田、喜田貞吉らの碩学に引かれて京都帝国大学の史学科に進んだとあるので、その頃からの知り合いなのだろう。薮田が始めた古書店文林堂については前記拙ブログでも言及したが、京都帝国大学文学部教授だった西田の日記で開店時期が判明した。
参考:藪田らの土俗同好会が創刊した『怒佐布玖呂』については、「土俗雑誌『怒佐布玖呂』(ヌサフクロ)創刊号(土俗同好会、昭和7年4月) - 神保町系オタオタ日記

寸葉会で新京極の興行新聞?『楽々新聞』2号附録(楽々新聞社、明治37年10月)を


 今月は寸葉会ということで、行ってきました。ひげ美術からは2点購入。今回は、『楽々新聞』2号附録(楽々新聞社、明治37年10月)を紹介。明治期の京都にこんな新聞があったのかと購入、1,000円。楽々新聞社は、京都市下京区御幸町六角下ルに所在し、編輯兼発行人は浅見孝太郎である。
 内容は、新京極の歌舞伎座で10月31日*1から開幕する狂言の紹介である。三人吉三廓初買の脚本(古河黙阿弥、安政7年)の概要や筋書も記載されている。
 楽々新聞社については、不詳。『京都府百年の年表9芸能編』(京都府、昭和46年3月)によれば、浅見は明治35年5月新京極の興行雑誌『百舞台』を創刊。5号、明治36年10月までは発行が確認されている。浅見は、その後に『楽々新聞』を創刊したことになる。また、『京都市姓氏歴史人物大辞典』(角川書店、平成9年9月)に明治11年滋賀県生まれ、京都へ出奔し、大阪新報記者、京都新報主筆になった同名の人物が立項されていて、同一人物と思われる。これによると、浅見は、大正3年京都市会議員、大正5年京都府会議員になるも、疑獄事件に遭遇して政界を退き、観光会社や出版社などの経営に当たったという。名士なので、明治期の経歴は調べればもっと判明するかもしれない。

*1:『近代歌舞伎年表京都篇4巻』(八木書店、平成10年3月)によれば、実際の開幕は1日遅れて11月1日

帝国劇場戦後初の開演「銀座復興」(尾上菊五郎一座)のチラシ


 平安蚤の市をのぞいてきた。例によって楽しみは、ナンブ寛永氏(@kan_ei_sen)出品の200円均一箱である。チラシ類の中に帝国劇場のものがあった。表紙に大東亜戦争終結し、当劇場が新発足とあり、演目も「銀座復興」で面白そうなので、買ってみた。
 『帝劇の五十年』(東宝、昭和41年9月)によれば、帝劇は昭和19年3月決戦非常措置により閉鎖。「銀座復興」と「鏡獅子」の二本立てが戦後初の開場(10月3日)で、2カ月のロングランになったという。入手したチラシは、11月興行とあるので、この前月のチラシも存在するのだろう。それでもこれは貴重なチラシと思われる。どこかに所蔵している機関はあるだろうか。
 「銀座復興」は、大正12年関東大震災後焼け野原となった銀座でいち早くバラック建ての小料理店を始めた男の物語である。もちろん大東亜戦争による空襲で焼け野原となった銀座、東京そして日本の復興という願いを込めた演目であろう。このチラシの旧蔵者は上演を観ただろうか、そして復興への決意を抱いただろうか。

 

3年後に100周年を迎える森田慶一設計の楽友会館ーー京大総合博物館に展覧会を期待ーー


 『明治大正大阪市史編纂日誌(下)』(大阪市史料調査会、令和4年2月)が出たので、上下巻を借りてきた。『大阪市史』の続編『明治大正大阪市史』の編纂事業開始(昭和2年)から事業終了(昭和10年)までの日誌の翻刻である。冒頭いきなり楽友会館が出てきた。

(昭和二年)
四月
三十日(土)
午後二時ヨリ京都帝国大学楽友会館ニ大阪市史編纂会議ヲ開催ス。本庄榮治郎・小島昌太郎・汐見三郎・黒正厳・菅野和太郎・藤田敬三・浅野恵二七氏出席。左記事項ヲ協議決定シタリ。
(略)

 『明治大正大阪市史』の編纂会議をなぜ大阪ではなく、京都の楽友会館で開催したのかというと、編纂主任の本庄が京都帝国大学経済学部教授であったほか、出席者のほとんどが同学部又は農学部農林経済学教室の教員だったからである。そうではない菅野は彦根高等商業学校教授、浅野は経済学部卒業後日本銀行に勤めていたが大正13年から大学院で本庄に師事していた*1。『明治大正大阪市史編纂日誌(上)』の解題によれば、本庄は門下生である黒正・菅野・小島・汐見・近藤文二・武田長太郎・菊田太郎を主要執筆者として起用したという。
 現在も東大路近衞にある楽友会館は、2年前に京都国立近代美術館で開催された「分離派建築会100年:建築は芸術か?」にも出てきた。森田慶一設計で大正14(1925)年開館である。ということは、3年後に100周年を迎えることになる。京都大学総合博物館(又は京都大学大学文書館歴史展示室)で展覧会を開催してほしいものである。
 柳田國男の年譜*2を見ても、楽友会館は数回出てくる。昭和6年5月10日の近畿国語方言学会発会式などである。また、折口信夫の年譜*3にも出てくる。たとえば、昭和5年5月17日の民俗学会京都大会である。この時の折口の講演「門」の要旨(『日本心霊』掲載)は、西田直二郎の講演「年中行事と民俗研究」要旨とともに、10月末に刊行予定の『「日本心霊学会」研究ーー霊術団体から学術出版への道』(人文書院)に翻刻が菊地暁先生の解題とともに初公開されるので、刮目して待て。→「「日本心霊学会」研究 - 株式会社 人文書院

*1:ネットで読める竹中正夫「倉敷の信徒父子ーー菓子商浅野義八と息子恵二」『キリスト教社会問題研究』29号による。

*2:柳田國男全集別巻1』(筑摩書房平成31年3月)

*3:折口信夫全集36巻』(中央公論新社、平成13年2月)