神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

鳥居龍蔵の次男鳥居龍次郎に「先ずは鳥居龍蔵全集を読んで」と言われたオタどん

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 あれは平成6年だったか、7年だったか、当時鳴門市にあった鳥居記念博物館に電話したことがある。図録の在庫の問い合わせだった。対応したのは、お爺さんだったが、「無いので、古本屋に当たってください」とか「先ずは全集を読んでください」と言われた。学生時代に鳥居龍蔵全集全12巻・別巻を全部読んでいたので、驚いてくれるだろうと「全部読みました」と返答したのに、驚いてくれなかったのはハッキリ覚えている。後から考えると、あれは次男で館長の龍次郎だったのだろうと思ったものだ。
 昨年は鳥居の生誕150年であった。本日の京都新聞に生誕150年を期に研究書刊行(昨年12月)や国際シンポジウム(本年3月)が相次ぎ、21世紀の視点から業績の見直しが進むとの記事(内田孝記者)が掲載されている。
 徳島県立鳥居龍蔵記念博物館鳥居龍蔵を語る会編『鳥居龍蔵の学問と世界』(思文閣出版、令和2年12月)の中村豊「戦後日本考古学史における鳥居龍蔵の再評価」によると、

(略)戦中・戦後に、和島誠一・ねずまさしをはじめとするマルクス主義史学者によって鳥居に対する否定的評価が下された。この時下された烙印は時流にも乗って、その後1960年代から現代にいたるまで、再生産を繰り返し続けたのである。その影響は大きく、全集が刊行されているにもかかわらず、原著を精読することさえ閑却視されてきた。

という。生誕150年を期に、鳥居の再評価が進むことは若き日に全集を読みふけった私には、この上のない喜びである。近年国内外の博物館などで鳥居に関する史料も新たに発見されているようなので、一層の研究の進展が期待されるところである。

興亜民族生活科学研究所の創立者戸田正三と石田英一郎ーー本田靖春『評伝今西錦司』の誤りーー

 斎藤清明『メタセコイア明治天皇の愛した木』(中公新書、平成7年1月)によると、昭和14年6月京都帝国大学内に興亜民族生活科学研究所が、興亜院(のち大東亜省)の所管する研究組織として設立された。前医学部長の衛生学教授戸田正三(戦後、金沢大学学長)が中心となって作られた。そして、医学者だけでなく、生物学者も必要ということで、植物学から三木茂、動物学から今西錦司が所員に迎えられたという。
 本田靖春『評伝今西錦司』(山と渓谷社、平成4年12月)を見ると、石田英一郎が戸田の養子だったという目を疑う記述がある。勿論そのような事実はないはずで、石田の全集の年譜にも記載はない。本田が「主な参考文献」として挙げる藤枝晃述、原山煌・森田憲司編註「[談話記録]西北研究所の思い出ーー藤枝晃博士談話記録ーー」『奈良史学』4号,昭和61年には、次のような発言がある。

(略)戸田さんの養子が同仁会病院に来てましたな。病院というよりは研究所、同仁会の医学研究所があって発疹チブスなんかの調査やってた。石田英一郎は何してたんか知らんのやけど、三・一五で牢屋へ入って、それから出てきてウィーンへ行って人類学で学位取って。向こうへ行ってからでもしょっちゅう特高は監視しとった様子やったね。(略)

 藤枝は「戸田さんの養子」と石田を別人として述べていると思われるが、本田はこれを誤読したのかもしれない。本田は故人なので、今後前掲書が再刊される場合*1は、編集部が注記するか、解説者が言及していただきたいものである。
 ところで、興亜民族生活科学研究所の解散時期である。斎藤著には、昭和18年3月末解散とある。しかし、『京都大学七十年史』(京都大学創立七十周年記念事業後援会、昭和42年11月)607頁には、「財団法人生活科学研究所は、(略)興亜民族生活科学研究所を母体として、昭和22(1947)年に発足したもの」という記述がある。戦前解散したものが再建されたのか、解散ではなく活動停止していたものが戦後名称変更されたのか、どちらが正しいだろうか。同研究所の実態も分からない。国会図書館サーチ、KULINE(京都大学図書館機構)、所蔵資料検索システム(京都大学大学文書館)、日本の古本屋のいずれでもヒットしない*2
 ところが、ネットで読める末永恵子「戸田正三と興亜民族生活科学研究所(上)」『15年戦争と日本の医学医療研究会会誌』18巻1号,平成29年11月というのが存在した。興亜民族生活科学研究所発行の戸田正三『東亜ノ風土ト其ノ服合策ノ調査研究』(昭和18年3月)が存在するらしい。続きは、国会図書館関西館へ行けば読めるか。また、科研費で「植民地・占領地の環境適応と生活科学ーー京都帝国大学戸田衛生学教室を中心にーー」を研究中のようだ。どのような事実が明らかになるか。

*1:既に講談社文庫、岩波現代文庫になっている。

*2:京都大学内生活科学研究所」では、ヒットあり。

南洋新占領地へ修学旅行に行く山本宣治から三高同級生山田種三郎宛絵葉書ーー坂野徹『〈島〉の科学者』(勁草書房)への補足ーー

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 『日本古書通信』5月号の岡崎武志「昨日も今日も古本散歩」127回に、奈良の古書柘榴ノ國が登場。岡崎氏が紹介している内容のほか、均一台に戦前の文芸雑誌が出たり、良さげな絵葉書を格安で売ってる店でもある。そう言えば、同店で買った山本宣治の絵葉書を思い出した。大正4年7月4日消印で堺市の山田種三郎宛である。文面は、図書館で「サイクロペヂア」を探れば、行こうとするラドロン島はマゼランにIslas de los Ladrones (泥棒の島)と命名されたとある云々という内容である。
 山宣は、前年第三高等学校第二部乙類に入学。この年7月から旧ドイツ領南洋諸島で日本軍による占領地へ加賀丸で見学旅行に行っている。全国のナンバースクール東北帝国大学農科大学予科の生徒による「南洋修学旅行団」の一員であった。全集5巻(汐文社、昭和54年6月)収録の「南の島より」*1には、次のようにある。

(略)エンサイクロピデアに見たラドロン列島の小史には、ラドロンといふ名はマゼランの命名イスラ・デ・ロス・ラドロネス即ち盗賊の島といふに始まるとある。(略)(八月十九日、南洋マーシヤル群島近海にて)

 山田宛葉書と同一の内容である。山田は、山宣と三高の同級で大正6年に卒業した後、共に東京帝国大学理科大学動物学科へ進学している。
 坂野徹『〈島〉の科学者:パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』(勁草書房、令和元年6月)335頁によると、後にパラオ熱帯生物研究所の研究員となる山内年彦は、山宣が主宰する性学読書会のメンバーであった。そして、山宣や柘植秀臣らと「人性生物学会」(人類生物学会)の結成準備をしていたところ、昭和4年山宣が刺殺されてしまったという。山内は、山宣から若き日のパラオを含む南洋修学旅行の話を聴く機会はあっただろうか。
 坂野著は、大正4年3月加賀丸で南洋新占領地の視察に向かった人類学者長谷部言人にも言及している。フィジーの博物館で頭蓋骨を寄贈されたり、マーシャル、ヤルート、クサイ(エ)で現地人の計測調査などを行ったという。この他に人骨の収集があったようで、小金井良精の日記*2に次のようにある。

(大正四年)
 六月二十二日 火 晴
(略)長谷部氏より南洋にて採集したる骨標本を返還せねばならぬ様の事情談あり(略)
 七月三日 土 雨
此頃中長谷部氏南洋諸島にて採集せる島人骨返還の件に付防備隊司令官海軍少将松村龍雄氏より懇請のよし山崎直方氏に伝言あり 此事に付今日長谷部氏松村氏を訪問し委細尋ねたり即ち返還は不得止べし且其場所に顛末を石標に彫して紀念すべし(略)
 十一月二日 火 曇雨
(略)海軍南洋防備隊副官少佐関根繁男氏来室、南洋土人骨格なるべく早く返戻されたし云々
 十一月二十六日 金 曇少雨
午前は南洋占領地採集品展覧会を山上集会場に見る(略)

*1:『加奈陀新報』連載。掲載月日不明

*2:『小金井良精日記 大正篇』(クレス出版平成27年12月)

薄井秀一『神通力の研究』を発行した東亜堂書房の特売品目録ーー小林昌樹「特価本目録は庶民読書の証言者」への補足ーー

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 ネットでも読める『国立国会図書館月報』(国立国会図書館月報|国立国会図書館―National Diet Library)3月号及び5・6月号の「国立国会図書館にない本」シリーズの小林昌樹「特価本目録は庶民読書の証言者」を読了。図書館の月報なので並の図書館なら蔵書の自慢をするところだが、さすが懐の深い国会図書館である。所蔵してない本の紹介をしてしまう人気のシリーズである。
 今回の小林君の論考は、通信販売用の図書目録である。冒頭、寿岳文章が小学校を出た明治44年頃のエピソードとして、博文館・新潮社・青木嵩山堂などの出版目録を取り寄せて直接購入したことが紹介されている。中島俊郎先生が喜びそうな導入部である。そして、「本ずき」の中でも庶民が安くはない本を買うのにどうしたかというと、次の手段があったという。
・古本を買う
・月遅れ雑誌(新刊雑誌の売れ残りで半値以下)を買う
・特価本(新刊書籍の残本の特価)の目録を利用する
 今回の論考は、このうち戸家誠さんから借用した特価本問屋の目録の紹介である。前編は地方書店や露天商など業者向けのカタログ、後編はエンドユーザー、読者向けのカタログが対象である。さすが戸家さんのコレクションで見たことのない目録ばかりである。
 ところで、5年前大阪古書会館全大阪古書ブックフェアで古書鎌田から300円で買った特売品目録を持っていたのを思い出した。ようやく見つかったので紹介しておこう。特価本問屋の目録ではなく、出版社である東亜堂書房の創業満10年記念の特売品目録であった。デジタル版日本出版百年史年表によると、東亜堂は明治36年12月創業なので、目録は大正2年(場合により3年)発行ということになる。買ったのは特売品目録だからではなく、書影が150冊も載っている珍しい図書目録であることと、表紙にあの若林書店*1のスタンプが押されていたからである。
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 買った時に気が付かなかったが、東亜堂は千里眼事件を扱った薄井秀一の『神通力の研究』(明治44年3月)の発行所であった。同書の定価は90銭だが特価で40銭と半額以下になっている。そのほか忽滑谷快天、足立栗園、檜山鉄心、小野福平など変わった本を出す出版社であった。何でもかんでも安売りしたわけではなく、裏見返しには忽滑谷の『養気練心の実験』などの特売を取り消している。何があったのだろう。
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 「日本の古本屋」には、岩波書店の創業満二十年記念の目録(昭和8年)も出ている。これらが、直接読者が購入できたのか不明だが、小林君の論考への補足としておこう。なお、若林書店は先日の向日市文化資料館における中島先生の講演によると、大正3年寿岳が真言宗立京都中学に入った後に東枝書店*2と共に常客となった書店である。偶然のことだが、寿岳繋がりとなった。
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金関丈夫、中村直勝、湯浅八郎らが創設した京都民芸同好会の民芸品展覧会

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 『民芸品展覧会目録(第四回)』(京都民芸同好会、昭和11年8月)が出てきた。あきつ書店300円の値札が貼ってあるので、東京古書会館まど展で買ったのだろう。大丸百貨店で開催された第4回民芸品展覧会の目録である。「本会の主旨」に挙がっている会員名は、次の9名である。

金関丈夫
菅吉暉
鈴木庸輔
中村直勝
深瀬基寛
松尾巌
山田保治
湯浅八郎
小野直養

 金関丈夫や湯浅八郎の名前があるので、買ったのだろう。京都民芸同好会については、中村の「京都の民芸同好」『淡交』増刊号第17号,昭和40年6月に書かれていた。

 昭和八年四月十五・十六日京都大丸百貨店で三一六点の民芸品を陳列して、世人の鑑賞を求め、われわれの研鑽を問うて見た。このとき京都民芸同好会を組織した。金関丈夫、菅吉暉、鈴木庸輔、中村直勝、山田保治、湯浅八郎の六名が同人であった。のちに小野直義、深瀬基寛、松尾巌が加わり(略)

 第2回以降の開催日と出陳点数をまとめると、

第2回 昭和9年7月21日・22日 220点
第3回 昭和10年7月19日~21日 206点 
第4回 昭和11年8月21日~23日 157点
第5回 昭和12年7月23日~25日 75点

 会場は、いずれも京都大丸百貨店であった。第1回~第4回までの目録は、京都学・歴彩館が所蔵。第5回の目録は、確認できない。
 会員の経歴は、金関は台北帝国大学医学部教授。菅は、大正3年京都帝国大学法科大学政治学科卒業後、朝鮮銀行調査局勤務。その後は、愛媛県に住んでいたが職業不詳。『民芸』415号,昭和62年7月の「愛媛民芸館開館20周年記念の行事 講演会、祝賀会、世界の民芸展」によると、昭和42年大原総一郎の提唱により完成した愛媛民芸館の当初の館蔵品は、京都民芸同好会同人で地元出身の収集家だった菅の所蔵品を譲り受けたものだという。
 鈴木は、明治27年生まれで島津製作所常務。中村は、第三高等学校教授兼京都帝国大学文学部助教授。深瀬は、第三高等学校教授。松尾は、京都帝国大学医学部教授。山田は、京都帝国大学農学部助手。湯浅は、同志社総長。
 小野がよく分からない。金関『文芸博物誌』(法政大学出版局、昭和53年3月)の「芭蕉自筆『笈の小文』稿本の断簡」に、「京都市在住の義弟小野直養君」とある。また、稿本は先考鈴蔵の遺愛品ともあるので、小野鈴蔵の息子ということになる。
 金関は、その後昭和16年7月台湾で『民俗台湾』を創刊。戦後日本に引き揚げるが、託されて村岡伊平治自伝の原本を日本に運ぶことになる。
 

女衒村岡伊平治の電気治療師時代ーー村岡の実在を証明した寺見元恵「マニラの初期日本人社会とからゆきさん」に注目すべきーー

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 『近現代日本の民間精神療法:不可視なエネルギーの諸相』(国書刊行会、令和元年9月)の吉永進一「序論」は、明治から昭和戦前期までの民間精神療法を5つに区分している。そのうち、第4期精神療法後期(大正10年~昭和5年)に続くものとして、第5期療術期(昭和5年~昭和20年)を設定している。第5期は、「民間精神療法の中心をしめていた精神療法は急速に勢力を減少し、電気、光線、指圧、整体などの物理的な療法が盛んになる」という。そして、電気療法の例としては杉田平十郎が挙がっている。
 電気療法などの物理的療法が民間精神療法の主流になる直前に電気療法を行う電気治療師となった人物がいる。映画「女衒」にもなった南方で女朗屋を経営した村岡伊平治である。その自伝『村岡伊平治伝』(以下「自伝」という)は南方社から昭和35年12月*1に刊行され、講談社文庫にもなっている*2。しかし、未だに村岡の実在を疑う向きもいるようだ。
 ところが、「『村岡伊平治自伝』の原本を目撃していた石坂洋次郎 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したように寺見元恵「マニラの初期日本人社会とからゆきさん」池端雪浦ほか『世紀転換期における日本・フィリピン関係』東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所,平成元年3月が、日本外交文書、『比律賓年鑑昭和十四年度版』、昭和17年3月の石坂洋次郎日記などから、村岡の実在及び自伝の一定の信頼度を証明している。そのため、平成元年以降村岡に言及した論文・記事で寺見論文に言及していないものは、底が浅いと言ってよいだろう。ただ、残念ながら寺見論文はあまり知られていないようである。もっと、注目されるべきであろう。なお、私も昭和12年1月の畑俊六日記に台湾滞在中の村岡と思われる人物を発見している*3
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 自伝から村岡の名刺を挙げておく。「ラジユーム放射 蒸熱イーデーエムエム電気学士」「兵庫県電療組合熱帯地研究支部長」「日本電療医学士練習院長」「ドクトル」との肩書が付いている。前記『比律賓年鑑』の「在留邦人名選」にもこれらの肩書が出てくる。

村岡伊平治 ドクトル、イーデエムエム電気学士、兵庫県電療組合熱帯地研究支部長、日本電療医学士練習院長、ビコール日本人小学校学務委員、原籍長崎市大浦相生町(略)明治三十一年十月渡航

 また、自伝の年譜によると、昭和3年7月14日病気療養等のため、フィリピンから神戸へ上陸し、中山手の弟の家へ落ち着く。野一式電気治療器を購入し、全快。須磨区戎町に移転し、「ドクトル村岡電気治療院」を開業。昭和4年医師会の実地審査に電気治療の組合を代表して診察し合格。しかし、英国で学んだと虚偽を言ったため、講演を頼まれ、南洋の病気などを紹介したら有名人となり、馬脚を現すことを恐れ、フィリピンに戻り、翌年電気治療院を開業とある。
 更に自伝の原本の巻末には、次のようなものの写しがあるという。
・日本鍼灸専門学院の卒業証書(昭和3年9月10日附、院長米国医学博士前陸軍一等軍医正七位勲六等立尾正衛発行)
・卒業証書(昭和4年9月11日附、日本電療高等学院長発行)
・電療学士認可証(昭和4年12月10日附、桃木電気研究所長桃木政治発行)
・日本電療医学士認可証(昭和4年12月10日発行、東京理学療治研究所、大日本電療専門学院支部、日本電療実習院長発行)
・熱帯地方研究部長としての派遣状(昭和4年12月10日附、神戸市松原通一ノ十五号電療組合長小阪伊作発行)
・その他電療に関する認可証、資格証明書など
 「霊気」と「電気」。字は似てるが、後者は科学的に実在し、計測もできる。そのため、電気療法は信頼できそうと思ってしまう。しかし、村岡のような人物が電療学士(又は電気学士)や電療医学士と称して治療を行っていたとなると、霊術と大した違いはなかったのかもしれない。霊術家の歴史は前掲書で概観できるが、戦前期の電気療法に関する研究はあるだろうか。

*1:宮本常一が自伝を刊行直後に読んでいたことは、「美人好きで悪いか!? - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:自伝の河合譲「あとがき」によると、村岡を最初に発見したのは、フィリピン航路の船長をしていた森勝衛だという。森船長については、「「やればできるじゃないか、ミスター・ヘリング」と林哲夫画伯言いーー『追想森勝衛』を拾うーー - 神保町系オタオタ日記」参照

*3:やはり実在した村岡伊平治 - 神保町系オタオタ日記」参照

慶應義塾図書館で「(西洋)文字景ーー慶應義塾図書館所蔵西洋貴重書にみる書体と活字」開催中ーー慶應義塾ミュージアム・コモンズ「交景:クロス・スケープ」の関連展示ーー

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 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(Keio Museum Commons | 慶應義塾ミュージアム・コモンズ)のグランド・オープン記念企画「交景:クロス・スケープ」の一環として、6月18日(金)まで「文字景ーーセンチュリー赤尾コレクションの名品にみる文と象」と「集景ーー集う景色:慶應義塾所蔵文化財より」開催中。要予約。フライヤーは持っている。これに関連展示として、慶應義塾図書館で「(西洋)文字景ーー慶應義塾図書館所蔵西洋貴重書にみる書体と活字」((西洋)文字景―慶應義塾図書館所蔵西洋貴重書にみる書体と活字 | Keio Object Hub: 慶應義塾のアート&カルチャーを発信するポータルサイト)が5月29日(土)まで開催中とある。こちらも予約制である。
 同図書館の展示は割と見に行っていて、図録も充実しているので、本来なら見に行きたいところである。しかし、何分の御時世なので諦めていたら、図録を御恵投いただきました。ありがとうございます。内容は、

第1部 文字のかたちとマテリアリティ
 I:羊皮紙以前ーーさまざまな支持体
 Ⅱ:中世写本の書体
 Ⅲ:初期活字の美
第2部 文字のなかの風景ーー「物語イニシャル」のナラティブ
 I:写本
 Ⅱ:印刷本

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 第1部は、エジプトの人型棺の上蓋を形成するパネルに書かれたヒエログリフ(紀元前600年頃)や青銅板に刻まれたローマ帝国軍人の退役証明書(160年)から始まり、9世紀新約聖書の『ローマの信徒への手紙』がラテン語で書かれた羊皮紙の断片などを経て、フランスのドミニコ会士ヴァンサン・ド・ボーヴェ『自然の鑑』(1476年)に至る。
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 第2部は、物語イニシャルとグロテスク欄外装飾に注目した『詩篇唱集(1250-1300年頃)から始まり、古事好事家、聖職者、出版者、法律家などが執筆・編纂にかかわったラファエル・ホリンシェッド編纂『イングランドスコットランドアイルランド年代年代記』第2版(1587年)などに至る。慶應義塾ミュージアム・コモンズの方が日本の文字文化を対象とした展示であるのに対し、図書館の方は西洋の文字文化に焦点を当てたものになる。
 お堅い本ばかりではなく、元ケンブリッジ大学キングズ・コレッジ図書館長で書誌学者のマンビー博士(1913-74)が書字の歴史を講義する時に使ったシュメールの粘土製円錐など30点が収まる「珍品キャビネット」や書誌学者フィリップ・ギャスケル(1926-2001)旧蔵書で「書物破壊者(又は書物愛好家)」による初期刊本・中世写本から挿絵と頭文字を切り取ったスクラップブックなど、古本マニアを驚かすような資料も出てくる。お近くの方は、ぜひのぞいてみましょう。
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