神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

興亜民族生活科学研究所の創立者戸田正三と石田英一郎ーー本田靖春『評伝今西錦司』の誤りーー

 斎藤清明『メタセコイア明治天皇の愛した木』(中公新書、平成7年1月)によると、昭和14年6月京都帝国大学内に興亜民族生活科学研究所が、興亜院(のち大東亜省)の所管する研究組織として設立された。前医学部長の衛生学教授戸田正三(戦後、金沢大学学長)が中心となって作られた。そして、医学者だけでなく、生物学者も必要ということで、植物学から三木茂、動物学から今西錦司が所員に迎えられたという。
 本田靖春『評伝今西錦司』(山と渓谷社、平成4年12月)を見ると、石田英一郎が戸田の養子だったという目を疑う記述がある。勿論そのような事実はないはずで、石田の全集の年譜にも記載はない。本田が「主な参考文献」として挙げる藤枝晃述、原山煌・森田憲司編註「[談話記録]西北研究所の思い出ーー藤枝晃博士談話記録ーー」『奈良史学』4号,昭和61年には、次のような発言がある。

(略)戸田さんの養子が同仁会病院に来てましたな。病院というよりは研究所、同仁会の医学研究所があって発疹チブスなんかの調査やってた。石田英一郎は何してたんか知らんのやけど、三・一五で牢屋へ入って、それから出てきてウィーンへ行って人類学で学位取って。向こうへ行ってからでもしょっちゅう特高は監視しとった様子やったね。(略)

 藤枝は「戸田さんの養子」と石田を別人として述べていると思われるが、本田はこれを誤読したのかもしれない。本田は故人なので、今後前掲書が再刊される場合*1は、編集部が注記するか、解説者が言及していただきたいものである。
 ところで、興亜民族生活科学研究所の解散時期である。斎藤著には、昭和18年3月末解散とある。しかし、『京都大学七十年史』(京都大学創立七十周年記念事業後援会、昭和42年11月)607頁には、「財団法人生活科学研究所は、(略)興亜民族生活科学研究所を母体として、昭和22(1947)年に発足したもの」という記述がある。戦前解散したものが再建されたのか、解散ではなく活動停止していたものが戦後名称変更されたのか、どちらが正しいだろうか。同研究所の実態も分からない。国会図書館サーチ、KULINE(京都大学図書館機構)、所蔵資料検索システム(京都大学大学文書館)、日本の古本屋のいずれでもヒットしない*2
 ところが、ネットで読める末永恵子「戸田正三と興亜民族生活科学研究所(上)」『15年戦争と日本の医学医療研究会会誌』18巻1号,平成29年11月というのが存在した。興亜民族生活科学研究所発行の戸田正三『東亜ノ風土ト其ノ服合策ノ調査研究』(昭和18年3月)が存在するらしい。続きは、国会図書館関西館へ行けば読めるか。また、科研費で「植民地・占領地の環境適応と生活科学ーー京都帝国大学戸田衛生学教室を中心にーー」を研究中のようだ。どのような事実が明らかになるか。

*1:既に講談社文庫、岩波現代文庫になっている。

*2:京都大学内生活科学研究所」では、ヒットあり。