京都表具業組合事務所内に置かれた美潢界社が発行していた『美潢界』(びこうかい)については、「『美潢界』第15回表展号(大正13年)を買ったら、よりによって国会図書館がその号だけ持ってた… - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。私の投稿が切っ掛けとなったかは不明だが、同誌の全貌に迫る論文が出ました。並木誠士編『近代京都の美術工芸Ⅱ:学理・応用・経営』(思文閣出版、令和6年7月)所収の多田羅多起子「表装界が迎えた近代ーー京都表具業組合誌『美潢界』を読む」である。
多田羅論文300・301頁によると、長期連載を軸に『美潢界』の刊行期を分類すると第1期(大正7年~大正10年頃)、第2期(大正11年~昭和4年)、第3期(昭和5年~昭和10年頃)、第4期(昭和11年~昭和15年)の4期になるという。このうち、第1期と第3期で竹内勝太郎の名前に言及されていた。すなわち、第1期では、それぞれ連載執筆者である江馬務、明石染人、間部時雄と風俗史研究でつながる竹内も大正8年から「芸術叢話」の連載を開始。第3期では、第2期を支えた千熊章禄と金澤宗為に加え、竹内の活躍が大きかった。
竹内の連載の特色については、同論文302頁に詳しいので、一部を引用しておこう。
以上のような表装に直接かかわる話題に対して、必ずしも仕事に直結しない内容の連載を長期にわたって担ったのが、詩人・竹内勝太郎であった。本誌への初登場は大正八年一月号である。当時新聞記者をしていた竹内は、その三年ほど前から明石國助(染人)との深い交流があった。竹内不死鳥名義で掲載されたはじめての原稿は「冬の湖畔から」と題した芸術論で、A君に宛てた手紙の形式をとっていた。それまでの誌面と大きく方向性の異なる、新鮮な印象を与えるデビューである。(略)翌月(昭和10年7月ー引用者注)の『美潢界』は哀悼号として全紙面が竹内を偲ぶ内容であり、竹内と本誌の深い結びつきを偲ばせる。
多田羅論文は、『美潢界』の主幹である高崎誠之助(筆名楳擔)について296頁及び312頁で言及しているが、竹内との関係について言及していない。そこで、富士正晴『竹内勝太郎の形成:手紙を読む』(未来社、昭和52年1月)を使って若干補足しておこう。同書昭和5年の章427頁に、「(5・7・19)のスタンプの葉書で市内吉田二本松 高崎誠之助という人から葉書が来ている。この人とはわたしは戦前面識があり、勝太郎の二度目の妻からあの人はうちの人の若い頃からの友人で、昔のことをなつかしがって話しにくるのだと聞いたように思う」とある。
また、528・529頁には明石夫人の訃報の執筆について催促をする高崎から竹内宛昭和8年1月21付け書簡を挙げ、高崎が表具屋のボスで業界誌『美潢界』を発行していたことを近頃知ったとしている。
「竹内勝太郎の遺族を支えた石崎光瑤らの京都画壇ー京都文化博物館で「生誕140年記念石崎光瑤展」開催ー - 神保町系オタオタ日記」で言及した竹内勝太郎君遺族扶助会の会務報告(昭和10年12月20日現在)の資金提供者70名の中に高崎や明石の名前がある。そのほか、表具業者としては長谷川友昌堂、伏原佳一郎の名も挙がっていた。『美潢界』竹内哀悼号の編輯をする若い頃からの友人であった高崎の心中はいかばかりであったか。