
今日(9月14日)から、京都文化博物館で「生誕140年記念石崎光瑤展」が始まった。開催に先駆けて、9月12日京都新聞に展覧会の紹介(林屋祐子記者)が載ったところである。明治17(1884)年富山県生まれで、19歳で京都に出て竹内栖鳳の画塾に入門したという。私は最近まで光瑤を知らなかったが、一旦覚えると人間グーグルなので、手持ちの史料に出ているのを見つけた。
経歴がよく分からない大阪の出版人某宛の書簡一括に含まれていたものである。西野厳三方「竹内勝太郎君遺族扶助会」からの封書で、「竹内勝太郎君遺族扶助会々務報告(昭和十年十二月二十日現在)」が入っていた*1。未受領を含めて、資金が70人から630円、美術品が45人から47点集まったと報告されている。このうち美術品を寄贈した画家・陶芸家のリストを挙げておく。

石崎光瑤が筆頭である。ただし、途中まではいろは順になっているので、順番に意味はないと思われる。昭和10年6月登山中に滑落死した竹内は、大礼記念京都美術館の学芸員(嘱託)であった*2。その関係で親しかった画家達は、作品を遺族のために寄贈したのだろう。
『富士正晴記念館所蔵富士正晴資料目録V:書簡(竹内勝太郎関係)編』(富士正晴記念館、平成8年3月)から、作品の寄贈者で竹内宛書簡数の多い画家を挙げると、次の通りである。
天野大虹(隆一)(79通)
入江波江(22通)
甲斐荘楠音(26通)
河合卯之助(20通)
榊原始更(23通)
榊原紫峰(32通)
堂本印象(20通)
都鳥英喜*3(33通)
福田平八郎(28通)
村上華岳(101通)
光瑤は、これらに比べると少なく14通である。もちろん、たまたま残った書簡の数と親密度との相関関係はないだろう。例えば、遺族扶助会が置かれた西野からの書簡が目録にはない。西野の経歴は、『昭和人名辞典第3巻』(日本図書センター、平成9年11月)から要約しておこう。
西野厳三
市主事、大礼記念京都美術館主任
明治38年12月茨城県生
東大文科卒、埼玉県立中学教諭を経て、昭和8年同館設立と共に現職
西野は、竹内にとって職場の上司で遺族扶助会の代表に選ばれる立場にあった人である。このような人からの書簡が残らなかったことになる。
資金提供者70人のリストは挙げないが、文学者としては川田順、志賀直哉、高村光太郎、武者小路実篤、堀口大学、松原至大らの名がある。また、京大関係者としては、朝永三十郎、成瀬清、西田幾多郎、浜田耕作らがいる。竹内を師と仰ぎ、残された日記や書簡を駆使して『竹内勝太郎の形成:手紙を読む』(未来社、昭和52年1月)を書くことになる富士正晴の名はない。当時数え23歳で第三高等学校を中退した富士に、遺族を支援するような余裕は無かったのだろう。