神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

藪内清を小林信子の静坐社に連れて行った曽我了雲


 近代仏教研究者で曽我量深(そが・りょうじん)を知らない人はいないだろう。一方、同じ曽我でも曽我了雲(そが・りょううん)を知る人はほとんどいないだろう。私も最近まで知らなかったが、「静坐社に参加した福田與の旧蔵書が古書市場にー吉永進一さんの追悼としてー - 神保町系オタオタ日記」で言及した南山大学の研究会でチラリと名前が出たので覚えてしまった。そして、『藪内清著作集第8巻』(臨川書店、令和5年11月)の「有縁の人々」*1を読んでいたら、驚いた。藪内の甲陽中学(甲陽学院高等学校の前身)時代からの友人として、了雲が登場したのである。

多勢の兄弟の末っ子ではじめは新作という名であったが、後に僧職にはいって了雲と改めた。(略)卒業後は姫路高校にはいったが、この時代に人生の問題と真剣にとりくみ、悩み多い青春を送ったらしく、一年留年してしまった。活路を仏教に求め、当時真宗の思想家として有名だった暁烏敏師を北陸に訪ねたり、曽我君が姫路高校ではじめた仏教青年会に招いたりした。こうして同君は京大文学部の仏教学科に進んだが、やはり京大にいた私は毎日のように彼と会い、仏教にはついに縁がなかったが、一緒にローマ字運動をやったり、静坐社へつれて行かれて静坐の仲間に入れられた。(略)京都下鴨の蕪庵の庵主森本瑞明師に信用され、神戸の三宮駅の近くに新築された洋風のモダン寺院をまかされたが、ここでいろいろの講座を開いて、神戸の文化活動に貢献した。晩年は神戸の成徳女子高校の理事長兼校長となり、同校の立て直しに成功したが、いつも仏教者としての立場をつらぬいた。

 戦後京都大学人文科学研究所長となる藪内は、同書の略年譜によると大正15年4月京都帝国大学理学部宇宙物理学科入学、昭和4年3月卒業で同年4月同学部副手となっている。了雲は昭和3年4月文学部哲学科仏教学専攻入学、6年3月卒業なので、了雲が藪内を静坐社に初めて連れて行ったのは昭和3年~6年の間ということになる。
 家蔵の『静坐』(静坐社)昭和11年10月号や18年9月号の裏表紙に掲載された「静坐案内」に光徳寺(神戸市葺合区御幸通6丁目)の了雲の名前があり、静坐の指導者の一人として活躍していたことがわかる。一方、藪内は主に学生時代だけ静坐社に出入りしていたのだろうと思いきや、家蔵の昭和16年10月号の「第十五回静坐実習会記念撮影」(昭和16年8月24日)に了雲と共に名前があった。藪内は、当時東方文化研究所研究員嘱託である。

 曽我は『仏教年鑑:昭和13年』(仏教年鑑社、昭和13年4月)の「現代仏教家人名録」によれば、明治39年3月山口県生まれ*2。国会デジコレで『月刊社会教育』22巻6号(旬報社、昭和53年6月)に訃報が載っていると分かるので、72歳まで生存していたことになる。藪内は享年94なので、いずれも50年も生きられなかった静坐の創始者岡田虎二郎より長生きしたことになる。
 末木文美士先生、吉永さん、栗田英彦先生の尽力で日文研に収まっている『静坐』の揃いは、「岡村敬二先生がブログで大連静坐会について言及 - 神保町系オタオタ日記」で言及したように利用され始めている。オンラインで公開されれば非常にありがたいが著作権法上そうもいかないので、「平安神宮の古本まつりで東寺済世病院長小林参三郎夫人の小林信子宛絵葉書を掘り出すーー『静坐』(静坐社)の総目次を期待ーー - 神保町系オタオタ日記」でも述べたが総目次の作成か、目次だけでもオンライン公開かしてほしいものである。
参考:「昭和通商ベルリン支店長前田富太郎と岡田式静坐法 - 神保町系オタオタ日記」、「九鬼周造「最後の歌」の初出誌としての『静坐』(静坐社) - 神保町系オタオタ日記

*1:朝日新聞夕刊』昭和57年5月31日~6月11日の間に6回掲載された分から「わが道」(同紙昭和45年5月18日~26日の間に5回掲載)と重複する一部を削り、5回分としたもの

*2:「曽我新作」で立項されていて、そのほか昭和7年より光徳寺における大乗仏教研究所事業に従事し、雑誌『光徳』、『法雷』(真宗学研究誌)、『瑞雲』(信仰誌)を編集しているとある。