神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

九鬼周造「最後の歌」の初出誌としての『静坐』(静坐社)

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 小林参三郎の妻小林信子が昭和2年に創立した静坐社の機関誌『静坐』については、「新村出・成瀬無極の脚本朗読会カメレオンの会と小林参三郎・信子夫妻ーーそして谷村文庫の谷村一太郎もまたーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。成瀬無極の「文藝坐談」が載っているというので、家蔵の同誌14冊を確認してみた。8巻7号、昭和9年7月には86回の「『嵯峨野の秋』について」が、17巻1号、昭和18年1月には146回の「職域奉公」が掲載されていて、家蔵の中ではこれが最後である。『無極集』(成瀬先生記念刊行会、昭和34年11月)の年譜昭和2年の条に「この年から小林静[ママ]子主宰の雑誌「静坐」に文藝坐談と題する随筆を寄稿し、昭和十七年まで約百五十回に及ぶ」とあるが、昭和18年1月号までは続いたことが確認できる。
 今回は、15巻6号、昭和16年6月の140回の「九鬼博士を弔ふの文」を紹介しよう。5月6日に亡くなった九鬼周造の追悼文である。4月24日に府立病院入院中の九鬼に躑躅の鉢植を贈ると、29日に詠んだ歌2首が届いたという。この歌は九鬼の死後に天野貞祐編集で刊行された『巴里心景』(甲鳥書林昭和17年11月)に「最後の歌」として収録されている。この歌に感動した成瀬は4月30日に返歌を送ると病床の九鬼から礼状が届いたという。5月6日に九鬼は亡くなっているので、絶筆に近いものだろう。『静坐』には、この礼状の文章と成瀬が葬儀で読んだ弔辞も掲載されている。
 私が買った『静坐』は、14冊で1,000円だった。1冊当たり100円にもならない。投げ売りと言ってよいだろう。しかし、この号などは目録に「九鬼周造の「最後の歌」の初出誌」と注記してあげれば、九鬼の研究者が数千円でも買っただろう。
 信子夫人は「新村先生は時々」『静坐』に寄稿してくれたと書いていたが、確かに新村出の「となり」が15巻1号、昭和16年1月に、「此春と耐乏」が17巻1号、18年1月に掲載されていた。どちらも『新村出全集索引』(新村出記念財団、昭和58年3月)の「書誌」に挙がっていた。
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