別件で東京美術学校長正木直彦の『十三松堂日記第1巻』(中央公論美術出版、昭和40年9月)を読んでいたら、自他共に認める藩札狂だった前田惇*1らしき人物を見つけた。何回も読んだ日記だが今頃気付いた。
(大正十三年)
六月二十五日 晴 出勤 楮幣蒐集家前田□□氏来訪 楷幣の我邦に在るものは堺の町人の間に通用せる私幣に始まるといひ藩札は元和年間のもの最古なり 徳川末葉にて諸藩藩札を濫発せし為にその数は五千余に及へりといひ支那のものは唐の会昌年間のものを最古とし宋より明のもの今尚多数に存在せりといへり 最近長崎にて昔の交易商の子孫より享保より文化文政天保弘化に至るまで和蘭陀船の船載せし更紗モールビロード占波なと約千五百種ほと買取りたりとて之を携示せり (略)
「□□」には「原文空白」とのルビがあって翻刻者は2文字分を想定しているが、おそらくは「惇」1文字分の空白と思われる。前田は昭和4年10月に酒井勝軍と共に天津教の「神宝」を拝観。昭和5年12月第1次天津教事件で警視庁に取り調べを受けている。その時の肩書きは、皇国神代文字仮研究所・大日本藩札研究会長であった*2。翌年5月東京帝国大学法学部の明治新聞雑誌文庫に出現して吉野作造に「山師」と見破られたことは、「[トンデモ]明治新聞雑誌文庫に迫るトンデモの影 - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。この後間もない昭和6年7月12日に前田は脳溢血で亡くなっている*3。
なお、Kamikawa氏の「梅原北明が作成した『変態趣味研究家名簿』について|Theopotamos (Kamikawa)」によると、梅原北明「変態趣味研究家名簿(第1輯)」『変態・資料』3巻1号(文藝資料編輯部、昭和3年2月)に「東京市 前田藩札狂 藩札」が掲載されているようだ。