神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

ようやくデジコレで謎が解けた『正心学舎規則』ー小林修『南摩羽峰と幕末維新期の文人論考』(八木書店)を参考にー


 国会デジコレの全文検索のおかげで過去の自分の研究において残された謎が解けた人も多いだろう。今回私も「明治期の私塾正心學舎はどこにあったのか? - 神保町系オタオタ日記」で言及した『正心学舎規則』の正体が判明した。デジコレで滝沢定春「頸城地方の私塾」『頸城文化』32号(上越郷土研究会、昭和48年4月)掲載の規則がヒットし、内容が概ね一致した。
 正体不明だった規則は、明治3年8月元会津藩士の南摩羽峰により現在の新潟県上越市で創設された私塾正心学舎の規則であった。規則中に「民法商法刑法」とあるので明治20年代以降の規則と思ってしまったが、日本の実定法ではなく欧米の法を指していたことになる。また、規則中「日課」の時刻表示がおかしいと思っていたが、明治5年改正前の不定時制の時代だったことで疑問が解けた。
 滝沢著は、「木村秋雨氏所蔵文書」の翻刻である。それとは異なる文書の翻刻小林修『南摩羽峰と幕末維新期の文人論考』(八木書店古書出版部発行・八木書店発売、平成29年3月)の「二 幕末維新期の南摩羽峰」に載っていた。正心学舎跡に隣接する地に住む内藤隆太氏所蔵の文書だという。家蔵文書と木村氏所蔵文書とで異なる点*1は、内藤氏所蔵文書では木村氏所蔵文書の方と同一であった。ただし、前二者に「皇国歴代ノ諸書ヲ略読シテ国体典型治乱沿革ノ大要」とあるのが、後者では「皇国ノ大要」とある。この辺りは、研究者が見たら規則文の成立過程がうかがえる史料になるだろうか。
 小林著によれば正心学舎は短命に終わり、羽峰は明治4年淀藩の聘に応じ藩校明親館督学に転じ、翌年廃藩により明親館が閉鎖されると京都府学職に転じたという。偶然ではあろうが、家蔵の規則は京都の古書店三密堂書店で入手したものである。筆写時期も伝来も不明で貴重な物かどうか不明であるものの、10月28日(土)・29日(日)神保町ブックフェスティバルに連動して皓星社*2で開催される古本市に出品するので、関心のある人に届きますように。

 

*1:例えば、三級の者で余力のあるものが渉猟すべき本の書名の順序が一部異なる。

*2:千代田区神田神保町3-10宝永ビル6階。1階はラーメン店大勝軒