神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

推し南木芳太郎、萌ゆーー風俗研究会大阪支部幹事松本茂平と南河内の重要文化財吉村邸ーー


 ヲガクズさん(@wogakuzu)ほどの南木芳太郎推しではないが、私は早くも平成22年8月には『南木芳太郎日記』第1巻を読んでいる(「南木芳太郎と『食道楽』の時代 - 神保町系オタオタ日記」)。昨年11月第5巻が刊行され完結したので、あらためて既刊分も再読した。そうすると、第4巻の次の記述が目に留まった。

(昭和十四年)
十月二十六日
羽間平三郎氏より『間五郎兵衛年譜』、松本茂平氏より『吉村邸之栞』到来。
(略)

 この『吉村邸之栞』を持っていた気がするので、積ん読本を掘ると見つかりました。30頁の小冊子で昭和14年10月25日発行。発行所の国宝吉村邸保存後援会は大阪府南河内郡高鷲村役場内に所在し、著者兼発行者の文学士松本の住所は同村大字島泉263である。300円の値札が貼られているが、どこから買ったかは不明。
 調べてみると、南木は昭和7年5月に江馬務と共に松本邸及び吉村邸を訪問していた。南木が主宰した『上方』18号(創元社昭和7年6月)の「萍水日誌」から引用する。

(昭和七年)
五月十三日 大鉄沿線南河内郡恵我の荘駅より七八丁高鷲村島泉に新居を構へし松本氏より招宴を受け、江馬、小澤*1両氏と参上す、食後松本氏の案内にてこの界隈で素封家として名高き吉村家の古建築を観せてもらふ事にした、吉村家は当地方に於ける豪族で、表構は今尚ほ武家屋敷の如く門長屋を設け、東西北の三方は塀を撓らし昔は外塀に沿ふて壕があつたといはれてゐる、奥座敷八帖上段の間が一番古く桃山時代に溯る建築であらうと専門家がいつてゐる、此処で最も興味ある建築は女中部屋と男衆部屋であつた。

 南木が感心した吉村邸は現在も羽曳野市重要文化財吉村家住宅として現存している。普段は非公開だが、特別公開もあるようなので今年公開されたら行ってみたい。この吉村邸の近くに新居を建てた松本は、京都帝大卒で江馬が主宰する風俗研究会の大阪支部幹事であった。『風俗研究』146号(風俗研究会、昭和7年7月)の江馬「桃山・江戸初期の民間住宅建築についてーー南河内吉村氏邸を観るーー」によれば、親友で風俗研究会大阪支部幹事の松本茂平は、「久しく風俗研究会と特別の関係ある松坂屋に勤務され、重役に昇進して先年社を辞し、その吉村家に程近い所に新築して晩年を悠々自適しようといふ(略)恐らくは京大同期の卒業生中の最も成功者である」。
 帝大出の学士なので、原田登編『帝国大学出身録』(帝国大学出身録編輯所、大正11年4月)に出ていた。要約すると、

松本茂平 東京市下谷区西町
原籍 愛媛県
明治43年京大文学部史学科卒
柏原中学校・大成中学校・東京中学校・愛知県立第五中学校各教諭を歴任
松坂屋いとう呉服店に入社

 この時点では東京に住んでいたが、その後大阪に引っ越したようだ。江馬は松本を「京大同期の卒業生中の最も成功者」と言っているが、江馬も松本と同じ明治43年京都帝国大学文科大学史学科国史専攻卒なので、その頃から親しかったのだろう。なお、当時京大教授の西田直二郎も同期*2なので松本を「最も成功者」というのは、リップサービスだったのだろう。
 松本は、『昭和前期蒐書家リスト:趣味人・在野研究者・学者4500人』(トム・リバーフィールド、令和元年11月)に南木、江馬と共に立項されていて、蒐集分野は「赤穂義士に関する文献」とある。今後も出会うかもしれない要注意人物だ。
 

*1:日本風俗史学会編『風俗史学の三十年:日本風俗史学会三十年史』(つくばね舎、平成2年10月)の清田倫子「風俗研究会のころ」に「当時(引用者注:昭和6年)大阪支部は、百数十年続いた友禅・絞りなどの老舗の主、小沢信次郎氏、上方研究会を主宰していらした南木萍水氏、松坂屋の重鎮松本茂平氏などが熱心に企画運営されていました」とある。

*2:明治43年京都帝国大学文科大学史学科東洋史専攻卒の荻山秀雄については、「風俗史家江馬務と荻山秀雄 - 神保町系オタオタ日記」参照