大谷大学博物館で「大谷大学のあゆみ 清沢満之と真宗大学」を観てきた。5月14日まで。展示品の中に「真宗大学東京移転記念集合写真」(明治34年)があり、一部の人には氏名が記されていた。清沢のほか、南条文雄、関根仁応、曽我量深、金子大栄、朝永三十郎らと共に赤松大励の名があって驚いた。というのも、「明治28年稲葉昌丸や今川覚神の周辺にいた真宗大谷派某氏の日記 - 神保町系オタオタ日記」で言及した日記『乙未日録』に赤松の名前が出ていたからである。赤松の経歴は『明治過去帳』(東京美術、昭和46年11月新訂)により、兵庫県出身、「西楽寺住職陸軍歩兵中尉」で、明治38年3月に日露戦争で戦死したことが分かるだけであった。意外と大物であったのかもしれない。
さて、明治29年10月京都府愛宕郡白川村の清沢満之が住む離れに置かれた教界時言社から、『教界時言』が創刊された。発行人は井上豊忠、編輯人は月見覚了であった。この時の様子は、森岡清美『真宗大谷派の革新運動ーー白川党・井上豊忠のライフヒストリーーー』(吉川弘文館、平成28年10月)182頁に詳しい。
発刊日の三〇日、井上は五条郵便局で切手を一二〇〇枚買い、清川*1の寓居に届けた。清川と月見が、永井*2・東谷*3・興地観円・杉田賢恵・岩崎護・木村ら本科第二部生の手伝いを得て忙しく働いていたし、研究科の草間*4・出雲路*5、本科の南浮*6・東谷らも白川有志と連絡をとりながら働いたようである。
岩崎や興地も、『乙未日録』に出てくる名前である。これによって、岩崎護と興地観円と推定できた。日記の筆者も岩崎や興地らと共に清沢、井上、月見、今川覚神、稲葉昌丸、清川らの白川党の身近にいた人物かもしれない。筆者の特定は難しそうだが、大谷大学の福島栄寿先生あたりなら解明できるだろうか。
なお、日録には「岩崎」を線で消して「幽香」と書き直してある箇所がある。岩崎幽香は江見水蔭『自己中心明治文壇史』(博文館、昭和2年10月)320頁で、『太平洋』8号(博文館、明治33年2月19日)の「文士内閣大見立」*7中の衆議院議員の一人として名前が挙がる人物である。同一人物だとすると、非常に面白い。