神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

明治28年稲葉昌丸や今川覚神の周辺にいた真宗大谷派某氏の日記


 吉永さんに頼まれた原稿が手を離れたので一安心。ようやく昨年四天王寺秋の大古本まつりで入手した日記を調査した。300円均一の和本台から見つけたもの。冒頭の写真の左側の日録である。なお、右側のチラシは記事とは直接の関係はないが、4年前に大谷大学博物館で開催された企画展「大谷大学と宗教研究ーー清沢満之西田幾多郎鈴木大拙ーー」。とても良い展覧会でした。
 日記は、明治28年6月12日から12月5日までのもので、真宗大学寮(大谷大学の前身)や稲葉昌丸、今川覚神らの名前が出てくることに驚き購入した。誰の日記かは、結局特定できなかった。日記の筆者は同年6月14日上洛して、大学寮の興地や岩崎を訪問している。興地は後に真宗大谷大学主幹事務取扱になる興地観円か。

 特に注目すべきは、8名の住所が書かれていることである。最初の2人が稲葉と今川。この2人と親しかった人物として真っ先に浮かぶのは、清沢満之(この年11月に徳永満之から改姓)である。しかし、須磨で静養していた満之が上洛するのはこの年の7月なので、別人である。ただ、満之が上洛後の同月9日渥美契縁執事宛に提出した寺務改革の建言書は、今川、稲葉、村上専精、藐姑射*1貫之、小谷真了、南条文雄ら12名の連名で行ったもので、そのうち3名の名前が見える。更に日記同月19日の条では小谷を訪問している。これらの人達は、大学寮や第一中学寮の教授なので親しかったとすると相当の人物と思われる。ただし、筆者は年齢的に若い人のような気がするのと、9月2日の条に「大学寮入学試験□ル」とあるので単に大学寮への入学希望者という可能性はある。
 日記の後には進化論に関する記事が続く。講義を聴いた記録というよりも、自ら原書を翻訳した節もある。そうだとすると、英語ができて進化論に関心があった仏教者ということになる。何者だろうか。
追記:稲葉は明治22年帝国大学理科大学動物学科卒。ただし、日記の筆者ではなさそうである。

*1:「はこや」と読む。