昭和15年3月斎藤隆夫は「反軍演説」を理由として、衆議院議員を除名される。その斎藤の日記『斎藤隆夫日記』(中央公論新社、平成21年11月)に大正10年における中村天風の統一哲医学会が出てくることは、
日記に見る戦前の中村天風 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。実は、同日記には浜口熊嶽も出てくる。
(昭和八年)
三月一日
(略)重夫は浜口熊岳診療所に行き施術を受く。其効果は不明なれども別に害ともなることなからん。
重夫は斎藤の長男で、肋膜炎だったが昭和10年8月数え22歳で亡くなっている。日記の記述では元々熊嶽にあまり期待してなかったようで、熊嶽が出てくるのもこの1度だけである。
熊嶽は、霊界廓清同志会編『霊術と霊術家:破邪顕正』(二松堂書店、昭和3年6月)では大阪市天王寺区の大日本天命学院の院長として登場している。また、『東京大阪八大新聞連載浜口熊岳記事録』(大日本天命学院本部、昭和8年10月)によると、昭和7年当時東京に3施術所を有し、発行所の大日本天命学院本部は東京市芝区高輪車町にあったことがわかる。井村宏次『新・霊術家の饗宴』(心交社、平成8年12月)*1によると、明治11年生まれで昭和18年に亡くなった熊嶽の後半生は北村博司『奔流 浜口熊嶽の生涯』(紀州ジャーナル社、昭和57年1月)に詳しいらしい。しかし、この本は近場の図書館にはないし、「日本の古本屋」でも2万円以上の値段が付いている。桑田欣児の本といい、この手の本の古書価が沸騰しているのは誰のせいやら(´・_・`)
*1:写真を挙げた井村著の裏表紙に載っているのが、熊嶽の写真