神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

新生会と名古屋文教協会における愛知教会牧師金子白夢

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モダニズム詩人折戸彫夫の父でメソジスト派牧師だった金子白夢は、様々な雑誌に執筆をしていた。ヴォーリズや吉田悦蔵らが明治45年7月に創刊した『湖畔之声』(湖声社)の端本が東京古書会館に大量に出た時に拾った229号,昭和7年3月にも、「語られざる言葉」を執筆している。目次を挙げておく。なお、ネット上の近江八幡市歴史浪漫デジタルアーカイブ湖畔の声」で創刊号から読めます。
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嶋木文庫出品で200円。「詩篇」第19篇の話から始まり、現代の哲学が合理主義や概念中心の流れから次第に非合理主義に傾き、直接体験に向かいつつあるとしている。
さて、愛知教会牧師時代の金子が名古屋で関係していた新生会について「金子白夢牧師の新生会 - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがあるが、詳しいことが小原國芳編『日本新教育百年史』5巻(玉川大学出版部、昭和44年6月。以下「百年史」という)の愛知県「第三章大正期の新教育運動」に「「新生会」の活動と金子白夢」の見出しで出ていた。これによると、小原國芳の『教育問題研究』(大正9年4月創刊)等に影響を受け、門前小学校の松村宗太郎・田中新男・柴田秀治・伊奈好雄らが新生会を創設。毎週の例会には会員30名くらいが集まり、後に金子の愛知教会を会場とした。第2次大戦中は一時中止されたが、終戦後は金子の自宅で再開された。金子の病気により閉講されるまで25年にわたり継続したという。また、新生会との関係がはっきりしないが、第1次大戦後矢場の地蔵堂の境内にできた中央食堂の階上で文化講座が開設された。この市民啓蒙活動の主唱者は、牧師であった金子と長野浪山、名古屋新聞主筆の小林橘川、与良松三郎、評論家の井箆節三、僧侶の成瀬賢秀*1、教育家の菊池智学、弁護士の小林茂、YMCA主事の浜野真、政治家の加藤鐐五郎らであったという。小林と成瀬は、「名古屋の読書趣味の雑誌『読友』(名古屋読書協会)創刊号ーー顧問に国枝史郎や金子白夢ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した名古屋読書協会の顧問でもある。また、金子、小林、長野は市川房枝が大正初期に名古屋で哲学の講義を聴いた木曜会のメンバーでもある。
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金子は明治6年生まれで、昭和8年に還暦を迎え、『新文化』(名古屋文教協会、昭和8年6月)に還暦を祝う記事が載った。同誌がようやく出てきたので、これも紹介しちゃう。目次と金子の写真を挙げておく。ただし、百年史にも金子の別の写真が載っている。なお、目次には出てないが、成瀬「祝白夢先生の還暦」と井上羽城(徳島毎日新聞主筆)「四十年の旧友に」も掲載されている。百年史には「名古屋文教教会と三宅直一郎」という見出しで、本誌についても書かれていた。三宅直一郎(号俊行)は、明治28年岐阜県平牧村の農家生まれ。独学により、哲学・宗教・教育について一見識を持つに至り、28歳で名古屋に転住。昭和6年5月名古屋文教協会を実質上*2創立し、機関誌『新時代』を創刊。誌名の変遷はあったが、14年9月の85号まで続いた。小原(6年)や長田新(7年)の講演会を開いたり、その講演録を刊行したという*3
金子の「還暦を迎えて」には、

(略)名古屋に来てから最早こゝに二十有二年。何等取りとめた働きも出来なかつたが長野、小林、成瀬、井箆等の諸君と云つたやうな友人同志と共に文化開拓の運動ーー婦人文化講座、男子文化講座、自由講座、人文講座、市民大学運動、新生会、無名会、黎明会、等々ーーさうした運動に出来る丈の働きを捧げた積りだ。(略)

とある。新生会、名古屋読書協会、名古屋文教協会、木曜会以外にも関係した会がまだまだあるようだ。
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*1:昭和13年版『仏教年鑑』(仏教年鑑社)によると、明治9年愛知県生。30年真宗東京中学高等科卒、正福寺住職となり、宗教・哲学・仏教・芸術を独学研究。『大心海』『覚醒』『光焔』等の雑誌を発行。大正13年印度南洋等の仏教史蹟を見学し翌年帰朝後『印度遊記』を著した。昭和9年名古屋仏教青年連盟を結成し、理事長となる。

*2:「実質上」とあるが、百年史の愛知県「七章新教育の回顧(座談会)」で、三宅は昭和6年2月新生会の会員約50人を中心に「日本民衆相互教育協会」が作られ、5月に小原の講演会を開いたことや同協会がその後「名古屋文教協会」に変わったことを発言している。

*3:新文化』の目次にある石井漠舞踏会は昭和8年4月27日公会堂で開催。石井が玉川学園の体育科講師だった関係のようだ。