神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

海外宣教会外報掛松山松太郎と英華義塾ーー明治20年米国神智学協会に書簡を送った松山松太郎の経歴ーー

 西本願寺普通教校教授だった松山松太郎は、明治20年3月米国神智学協会に問い合わせの手紙を送付。これが海外宣教会の前身である欧米通信会の結成につながる。この松山の経歴は、中西直樹・吉永進一『仏教国際ネットワークの源流:海外宣教会(1888年1893年)の光と影』(三人社、平成27年6月)の中西「第一章海外宣教会とその時代」でも、英語に堪能で海外宣教会の外報掛であったことや明治21年7月創刊の英文雑誌『THE BIJOU OF ASIA(亜細亜之宝珠)』で著者兼発行人を務めたことのほか、シカゴの万国宗教会議の記録をまとめた本の上梓(明治26・27年)以降の動静は不明としている。
 『近代文学研究叢書』48巻(昭和女子大学近代文化研究所、昭和54年1月)の英学者増田藤之助(慶応元年生、昭和17年没)の英学修行時代に関する記述の中に、松山が出てくるので紹介しておこう。

 明治十八年九月、病状が快方に向かったので、松本恒之助を同志社に頼って、京都に赴いたが、どういうわけか結局、松山松太郎の経営する英華義塾に入り、そのかたわら平井金三の経営する英学教授所に通った。(略)こうして十九年十月末まで、京都で働きながら勉学にはげんだ。

 松山は明治18年・19年頃は京都で英華義塾を経営していたらしい。英華義塾は慶應義塾とは直接の関係はなさそうだが、松山は慶應出身ということはあるかもしれない。引き続き要調査である。
追記:前掲書の吉永「第二章 仏教ネットワークの時代ーー明治20年代の伝道と交流ーー」によると、松山は、海外宣教会が活動停止した後、文学寮を辞め、台湾で客死しているという。